違和感

ほんらい、このブログで書くべき内容ではないと思いますが、少しだけ感じたところを。

8月6日と9日は、テレビはどの局を見ても、トップは「原爆投下から70年」関連のニュースで埋め尽くされています。

しかもその内容は、いずれも「原爆の恐ろしさ」「悲惨さ」「命の大切さ」「二度とあやまちを繰り返さない」「忘れてはならない」「語り継ぐ」といったような言葉であふれかえり、我々日本人は毎年この日この時期になると、一斉に広島と長崎に向かって罪を悔い、国民全員が懺悔をしなくてはいけないかのごとき重い空気が堂々と流れます。

…少なくともテレビではそうなっています。

でも、この二ヶ所に原爆を落としたのはアメリカであり、罪を悔い懺悔をすべきはあちらのはずで、日本は被害者だという厳然たる事実が、長い時をかけながら骨抜きになっているように思います。
日本が被爆国という立場から原爆の恐ろしさを訴えるのであれば、国内より核保有国に向けておこなうべきでは…。しかるに原爆の罪の源流が、まるで日本側にあるかのような文脈は、とうてい受け容れることはできません。

「原爆投下は国際法違反」という意見もあるほどで、そこには落とした方と落とされた方は雲泥の差があるはずだと思います。だからといって、どこぞの国のように際限のない謝罪要求などすべきとも思いませんし、いまさら友好国であるアメリカを責め立てろとは思いません。が、少なくとも、毎年この時期になるといつも何かボタンを掛け違えているような空気に違和感を覚えます。

アメリカは謝罪はおろか、大統領が一度でも両都市を訪問したこともなく、駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディなどVIPのお客さんみたい。

なぜ日本のマスコミは、原爆の悲劇についてまで、その罪科がつまるところ日本人にあるかのごとくねちねちと言い立てるのでしょう。
少なくとも、他国では絶対にあり得ないであろう、不可解な現象ではないでしょうか。

無辜の民間人が住み暮らす、空爆などしていない無傷の都市を敢えて選び出し、ためらいなく原爆投下という蛮行をやってのけたのは、まぎれもなくアメリカであるという事実を、みんな知識として知っているのに、意識として忘れているように感じるのです。

いつまでも憎悪の念をもたないという点では日本人の奥ゆかしさだとも言えるでしょう。でも、それがいつしか原爆の災禍までもが日本人の犯した過ち故といった色合いが、日本人の手によって作られて、それが世相の中央を闊歩するのはどうにも共感できません。

以前、何かの本で読んだことがありますが、広島の平和記念公園に行くと、石碑に『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』という文字が刻まれ、ここには主語がなく、あたかも日本人の過ちによって、もしくは日本の犯した罪の報いとして、原爆の悲劇を招いたかのようなニュアンスになっていると記されていたことを思い出しました。

終戦70周年を迎えて、一連の報道は、いまだにその路線を踏襲したものだということがあらためてわかりました。