不思議な演奏

ピアニストには「その人固有の音」があると言われます。
楽器自体がもっている音とはべつに、その人のタッチや演奏の律動が生み出すもうひとつの音色というべきもので、「その人」が弾けばどんなピアノでも「その人の音」になってしまうのは実に興味深いことです。

これを思いがけないところで思い出させられることになったのが小山実稚恵のピアノでした。

今年6月、N響の定期公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像を見ましたが、好みの問題もあるでしょうし、なかなかコメントが難しいと感じる演奏でした。

昔からですが、この人はどうしても楽器を豊かに鳴らせないピアニストなんだということを、この演奏を聴きながら、沈んでいた記憶がふわっと浮かび上がってくるように思い出しました。
どのピアノを弾いても、CDでも、実演でも、不思議なほど音が痩せて固い音になるのは、まさにこのピアニストの固有の現象だと思います。それを小山さんの音と呼ぶべきかもしれません。

また、どんなに力もうとも、音に厚みや迫力が増してくることはなく、だからいよいよ叩きつけてしまうのか、要するに弾き方に問題があるのだろうと思った次第。

たしか何かの記憶では、芸大時代に名伯楽・田村宏氏に師事したところ、田村氏は「もしかしたら、将来ものになるかもしれない学生」としながらも、指ができていないので、その方面の専門家である御木本澄子さんに一時彼女を預けたということを読んだことがありました。

もしかすると、それでも完全な克服には至らず、現在も何かを引きずっているのか…とも思ったりしますが、むろん確かなことはわかりません。

30年ほど前のチャイコフスキー(コンクール)3位、ショパン4位という受賞歴がこの人の知名度をあげるきっかけになったのでしょうが、小山さんを聴くたびに感じることは、その頃からほとんど何も変わっていないことでしょうか。
年齢的に言っても、多少は演奏が熟成してくるのが普通というか、聴く側もそういう期待をするのが自然だと思うのですが、この人にはそれがほとんど感じられないところにむしろびっくりさせられます。もしかすると多くのファンの方々は小山さんのそんなところを、いつまでも失われない初々しさと好意的に捉えておられるのかもしれません。

弾いているのは確かにチャイコフスキーの1番という超メジャー曲にもかかわらず、ほとんどこの曲を聴いているという実感がなく、とくだんの思い入れもないレパートリーの中の1曲をたまたま今弾いているという印象。
小山さんにとっては初めて国際コンクールの決勝で弾き、さらには冒頭でご本人も言っておられましたが、オーケストラと共演したのもこのときが初めてだったということで、若い時にしっかり弾き込んだ曲らしい、手慣れた演奏だろうと思っていたら、その予想はスルリと外されてしまいました。

とりわけこの曲の大仰な叙情性は敢えて排除されたのか、印刷された音符の世界だけがパチャパチャとひろがる様は不思議です。視覚的には、いかにも演奏に集中し、作品からさまざまなことを感じているといった顔の表情とか、いかにもな両腕を上に上げたりとかのモーションであるのに、聴こえてくる音はというと、驚くほどあっけらかんとした無機質なもので、そのビジュアルと音の差にも戸惑ってしまいます。

そうかと思うと、ところどころで盛大に間をとって「ほら、こんなふうに繊細で大切にすべき箇所ではちゃんと一音一音いつくしむようにやっているでしょう?」といった表現もあるけれど、全体と細部が照応せず、辻褄がまるきり合っていないという印象でした。

いっぽう音楽的に要所と思える部分では、えらくスイスイと素通りしてしまうなど、マロニエ君にはおよそ理解のできない演奏のように聞こえるばかりでした。
それでも、音が自分の好みなら、そちらにだけ耳を傾けるという方法もありますが、それは冒頭に書いたとおりで、要するに何もかもがよくわからないまま終わってしまいました。