我が家では夕食は自宅でこしらえるのが大半で、外食はたまに行く程度です。
主には家人が作り、べつに大したものでもなければ凝ったものでもありませんが、それでもひとつだけ、強いてささやかなこだわりがあるとしたら包丁です。
目的に応じて数本の包丁を使い分けないと、まるきりやる気が起きない由。
出刃包丁はめったに使いませんが、それ以外の刺身包丁、普通の三徳包丁みたいなもの、それに小型のものが常に使われ、必然的にその切れ味が問題となります。
どれもずいぶん年季の入ったもので、刺身包丁などは長年使い込んで(研いで)その刃先は新品時の半分ぐらいに痩せてしまっているほど使い込んでいるし、普通の包丁も切れが悪いというのがこのところよく聞くセリフで、それなら新しいものを買おうかということになりました。
いまや日本の包丁は外国人にもかなりの人気らしく、おみやげなどに日本のすぐれた包丁類を買い求めていくとか、あるいは欧米の一流と言われる料理人達の多くが日本製の包丁を使っているというような話をよく聞くので、もしかするとよほど「進化」しているのかもしれず、試しに一本買ってみようかというわけです。
こんなときに便利なのがネットで、どんなものを買うべきか、オススメはなにか、注意すべきはなにかをざっとあらってみました。果たしてそこで述べられているのは、セラミックは研げないので使い捨てになること、どんなに評判の高級品であってもステンレスには限界があること、本当に切れ味を求めるならすぐに黒く錆びるような鋼材を主体としたものがいいこと、さらには包丁は、そこそこのものさえ買っておけばそれでよく、問題はむしろ研ぎにあるとありました。
研ぎの問題はかなり重要と思ってはいましたが、この道に詳しい人の談によれば、なんと、包丁の切れ具合の9割が「研ぎにかかっている」と書かれているのには、いまさらですが唸らされました。
板前の修業でも包丁研ぎは基本中の基本で、一流の料理人は一流の研ぎ師であるのかもしれません。
つまりは、どんなに良い物を買っても、きちんと研がなければその価値はないも同然、宝の持ち腐れだというわけです。
これには激しく賛同。
意を新たにし、包丁を買う前に好ましい砥石を買うことが先決だということになったのは当然というべきでしょうか。
実は、マロニエ君宅で使っている砥石は昔の砥石がすり減ってしまったときに、急場しのぎでホームセンターで買った安物だったのですが、これがいけませんでした。サイズも小さいし、ざらざらして使い心地も良くないし、こんなものを今だに使っていることがそもそも切れ味の不満を招く元凶であることもわかって、すぐさま砥石を調べることに。
その結果、砥石にも上には上があるようですが、普通は人工青砥石というのが一番良さそうで、価格も4000円ほどと思ったより手頃だったこともあり、さっそくこれを注文しました。
翌々日に届きましたが、さすがにホームセンターの安物とは違って、サイズも大きく、表面がこれで研げるのかと思うほどすべすべしていて、なにより美しいことが新鮮でした。もうこの時点からして、長年不適切なものを使ったばかりにずいぶんと損をしたことが悔やまれます。
さっそくかなり黒ずんでいる三徳包丁を研いでみます。
砥石を水に沈めて水分を含ませてから、最初の一二回腕を上下させただけで、てんで感触が違うことにびっくり。ざらざらしてまるでヤスリのようだったこれまでの砥石にくらべるまでもなく、しっとりして粒子の細かさが両手の指先に伝わります。それでいて一回ごとに刃先がずんずんと研がれていくのもわかって、これこそが砥石なんだと感動しました。
包丁の刃先は、どちらかというと柔らかいものに接しているようで、それなのに確実に研磨されて一皮一皮よけいなものが剥かれていくのが使わってくるのは、大げさな言い方をすると生理的快感に近いものがあります。
すっかり気を良くして、こちらもついテンションがあがります。
包丁研ぎは楽器の演奏と同じで、やみくもに力を入れればいいというものではなく、だからといって臆病一本でもダメで、気を入れてメリハリを持たないといけません。楽器がもっとも美しい音を出すポイントや力加減があるように、集中力と合理的な動きが求められるように思います。
また、石の全体をくまなく広く使わないと、長年の使用で片減りのようなことが起こりますから、お習字ではないけれど、意外にこれは精神的作業だなぁと思います。
ひと通り研ぎ終わって、野菜などを切ってみると、果たしてこれが同じ包丁とは思えないほどの切れ味となりました。
刃先がより細く平滑になっているためか、刃先が吸い込まれるように、定規で線を引くように、無理なく、静かに切れていく感じです。切るときの感触もしっとりしていて、落ち着きがあって楽だし、断面も心なしか美しいようです。
砥石ひとつでこんなにも違うものかと感心すると同時に「9割が研ぎにかかっている」という事実をまざまざと体感させられたようでした。ほんとうにその通りだと思います。
むろんより良い包丁、より良い砥石と、さらに上の世界があるのでしょうが、マロニエ君宅の台所ではもうこれで十分で、お釣りが来るほどです。
かかる次第で、新しい包丁を買おうかという話も、ここしばらくは立ち消えになりそうです。