報道のセンス

今どきのニュースは、後味の悪いものが年々増えてくるようで、世の中はどうなっていくのだろうという出口の見えない不安にかられることがしばしばです。
政治や外交のこと、経済のこと、内外の殺伐とした事件など、憂慮すべき問題はあとを絶ちません。

そんな中では、最近はようやく安堵できる大ニュースが複数あったのは幸いでしたが、ここで政治や思想に関することを書く気はないので、それには敢えて触れないでおきます。

ニュースに関する不満は、ニュースそれ自体の内容もさることながら、マスコミの報道の仕方も大いに関係していると云うべきでしょう。思想的偏向があるのはもちろん、とくにTVニュースなどでは、つまらぬ流行の押し付けや視聴者の不安を煽って楽しんでいるかのような趣味の悪ささえ感じます。
また、基本となるべきニュースはそこそこに、すぐに地域型の美談のたぐいに走るとか、特集などと称してお涙頂戴の話題に切り替わるのは、いつもながら「こんなものがニュースという枠内で取り上げるべき事柄だろうか…」と違和感を覚えることが、あまりに多すぎるように思います。

もうひとつは、あれほどまでにスポーツを大々的に、何かというと国民最大の関心事であるかのように、わざとらしいテンションで取り上げるのもいかがなものかと思います。
それに連なって、スポーツの場で最高の競技をすることが本分であるアスリートにどうでもいいようなことを喋らせて、それをありがたがるという風潮もどうにかならないものか…。
そもそもスポーツってそんなにまでエライんでしょうかね。

いずれにしろ、マスコミ自身がまず報道するネタの取捨選択をするわけですが、その尺度からしておかしいと思うわけです。

昨日のニュースを例にとっても、第3次安倍改造内閣が発足したにもかかわらず、それはずっと後で、どのチャンネルも申し合わせたように冒頭からノーベル賞一辺倒、これが放送時間の大半を占めています。
知るかぎりで、NHKの7時のニュースはそうではなく、それが珍しいくらいでした。
日本人がノーベル賞を受賞することは、むろん嬉しいことではあるけれども、それを取り扱うニュースの在り方はというと、これはまったくいただけないもので、受賞の根拠となる業績や研究成果などについての説明はパパッと通り過ぎるだけで、あとは受賞者の家族や友人や恩師などの喜びの様子をやたらと取り上げて、それのくどいことには閉口します。

むろん偉大な研究の影には、それを支えた多くの協力者がいるはずですから、家族その他のコメントなども少しはあるとしても、ものには限度というものがあり、あくまでも主役は受賞者でありその業績なのですから、それをはき違えたような捉え方はどうもいただけません。

だからといって、シロウトに専門的な高度な科学の話などをされてもなかなかわかりませんが、やはりそこを少しでも噛み砕いて、一般人にもわかりやすく紹介すべきではないのかと思います。
しかし、マスコミは受賞者の功績より、受賞したという結果だけに興味があるようで、「おらが村から…」的な視点で地元や身内の人間が今とばかりに前に出過ぎることは、せっかくのノーベル賞がただのホームドラマへと変質していく気がします。

マスコミは「喜び報道」の名のもとに、せっかくのノーベル賞をこんなにベタベタと手垢だらけにしていいものかと思います。少なくともマロニエ君はノーベル賞ぐらいのことになれば、もう少しスマートなやり方で栄誉を称えていくことを望みます。

芸術分野では世界的権威である高松宮殿下記念世界文化賞などは、受賞者の取り扱いもよほどまともで、どうしてこんなふうにできないものなのか。
スポーツや科学は巨大なビジネスになるが、芸術はなりにくい…その差なのか。

ともかくノーベル賞の報道は、ほとんどスポーツのノリで金メダル感覚というべきで、これまでの受賞数が20いくつというようなことを繰り返し繰り返し言うのは、やっぱり金メダルでしかないんだなあと思います。
むろん日本は大したものだと思いますが、数でいうならアメリカなどは300人以上ですから、そういうことを言うのもほどほどに願いたいところです。

何かというと「オトナの対応を…」などとしたり顔でいうけれど、ノーベル賞受賞の喜び方というのは、日本はずいぶんと洗練を欠き、ベタベタした家庭色が強すぎて、見ていて喜ばしい気持ちがいくぶん差し引かれてしまうのは、却って受賞者の高い功績をマスコミが汚してしまっているように思います。

喜びをストレートに表すことと、理知的であることは、両立しないものなんでしょうか。