「できれば、もう少し弾いてください」
先日ディアパソンの続きの調整にこられた調律師さんは、帰りしなマロニエ君にこう云われました。
以前も同じようなことを書いたかもしれませんが、よろず機械ものというのは、適度に使うことで好ましいコンディションを維持できるものだということを、今また、あらためて感じさせられています。
人の体や脳も同様で、これが関係ないのはデジタルの世界だけかもしれないですね。
むろん使うといっても酷使ではいけないし、機能に逆らう過度な使い方もいけない。
逆に使い方が足りない、あるいは放ったらかしというのも、消耗がないというだけでこれまた良いことはありません。
最も良い例が家屋で、人のいなくなった家というのは、恐ろしいスピードで荒れ果て、朽ちていくのは誰でもよく知るところです。人が住んで使われることで、家はその命脈を保っている典型だと思います。
これはピアノにもある程度通じることです。
ピアノも長年ほったらかしにされると、弦はさび、フェルト類は虫食いの餌食になり、可動部分は動かなくなるかしなやかさを失ってしまうのはよく知られています。かといって教室や練習室にあるピアノのように、休みなくガンガン酷使されるのも傷みは激しいようで、バランスよく使うというのは意外に難しいもの。
マロニエ君宅のピアノはそのどちらでもないけれど、強いていうなら、弾き方が足りないのは間違いないと自覚しています。もともとの練習嫌いと、技術的な限界、さらには趣味ゆえの自由が合わさって、つい弾かなくなることが多いのです。
楽譜を見て、パッと弾けるような人ならともかく、マロニエ君などはひとつの曲を(自分なりに)仕上げるだけでも、相当の努力を要します。しかも遅々として上達せず、それをやっているうちにテンションは落ち、別の曲に気移りし、結局どれもこれもが食い散らしているだけで、なにひとつものになっていないというお恥ずかしい状態です。
知人の中には、ひとつの曲を半年から一年をかけてさらって仕上げていくという努力一筋の方もいらっしゃいますが、あんなことは逆立ちしてもムリ。見ていて、ただただ感心するばかりで、「よし、自分もがんばろう!」などという心境にはとてもじゃないけどなれません。
むしろ、どうしたらあんな一途なことが出来るのか不思議なだけで、むろん自分のがんばりのなさもホトホトいやになるのですが、そこまでしなくちゃいけないと思うと、ますますピアノから遠ざかってしまいます。
心を入れ替えて、一つの曲の練習に没頭するなどということは到底できそうにもないし、だいいち自分には似合いません。たぶん死ぬまで無理で、これがマロニエ君の弾き手としてのスタイル(といえるようなものではないけれど)だと諦めています。
根底には、いまさらこの歳で、ねじり鉢巻で練習したところでたかが知れているし、根本的に上手くなれるわけはないのだから!という怠け者特有の理屈があるのですが、どこかではこれはそう悪い考えでもないとも思っています。
話が逸れましたが、だからピアノにはあれこれこだわるくせして、実際どれくらい弾いているのかというと、毎日平均すると5分~10分弾かれているに過ぎないというのが実のところですし、それも厳密に言えばダラダラ音を出しているだけで、「弾いている」と胸を張って言えるようなものでもない。
で、冒頭の話にもどれば、これではやはり使い方が少なく、楽器の状態としても理想ではないと思うわけです。本当ならきちんと弾いて使って、その上で技術者さんにあれこれ要求するのが順序というものでしょう。
ところがごく最近のこと、たまたま楽譜が目についたので、ショパンのマズルカを1番から順々にたどたどしく弾いていると、ちょっとおもしろくなって、珍しく2時間ほど弾いたのですが、後半はピアノがとても軽々と鳴ってきたし、アクションも動きが良くなったように感じました。
また30分以上弾くと、弾かないから日ごとに硬化してくるように感じていた指も、いくらかほぐれて活気が戻り、ちょっとは動きも良くなるし、そのぶん自由がきいて脱力もできてくるのが我ながらわかって、こういうときはさすがに嬉しくなってしまいます。
この壁を突破すると、いささか誇張的な言葉でいうなら陶然となれる世界が広がるわけです。
普段からきちんと練習を積んでいるような人は、いつもこの「楽しい領域」に出入りしていて、だから練習もモリモリ進むものと思われますが、マロニエ君の場合、滅多なことではこの状況は訪れてくれません。何ヶ月に一度あるかないかの貴重な時間ですが、たしかにこの刹那、やっぱり練習もしなくちゃいけないし、楽器も弾かなくてはと思うのは嘘偽りのないところです。
そうなんですが、その気分が持続しているのはせいぜい翌日ぐらいまでで、それも前日より弱くなっていて、3日目にはきれいに元に戻ってしまいます。マロニエ君自身がそうなってしまうのは一向に構わないけれど、それにつれて、ちょっぴり花ひらいたかに思えたピアノが、また少しずつ眠そうになってくるのはもったいない気がします。
谷崎潤一郎の何かの文章の中に「怠惰というのは東洋人特有のもの」というような意味のことが書かれていて、読んだときはたいそう意外に思った記憶がありますが、その点で言うとマロニエ君はまぎれもなく東洋人なんだということになるんだろうなぁと思います。