ペライア雑感

Eテレのクラシック音楽館で今年のNHK音楽祭から、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン交響楽団とマレイ・ペライアのピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

ペライアはレコーディングされたものに関しては、主だったところはだいたい聴いてきたつもりですが、初期を除くと、きれいなんだけどよくわからないピアニストだという印象があります。
いつだったか指の故障に見舞われて、演奏活動を休止したことがありましたが、見事に復活して今日に至っているのは幸いですが、ピアニストとしての方向性というか定めるべき本質のようなものはずいぶん変質してきたというのが率直なところでしょうか。

マロニエ君にとってはこの指の故障前までのペライアはそれなりに好きなピアニストだったし、彼がどのような演奏を目指していたのかもわかるようで、素直について行くことができました。
デビュー盤(正確にそうかどうかは知りませんが)のシューマンの清冽さ、イギリス室内管弦楽団とのモーツァルトのピアノ協奏曲全集はこの時期の出色の演奏だったと思いますし、いまでも時折聞いているディスクです。

マロニエ君のおぼろげなペライアのイメージとしては、アメリカ出身のピアニストとは思えぬキメ細かな配慮、趣味の良いリリックな語り口、こまやかで緻密に動く指と幸福な美音で聴かせるピアニストで、強いていうなら、リパッティの後継者のような印象と期待をもって眺めていた覚えがあるのです。

しかし、当時からベートーヴェンなどになると、やや軽量な感じが出て、表現にもエグさが足りず、こちらの方面には向いていない人だという印象でした。

当人はそれに満足しなかったのか(一説にはホロヴィッツの助言もあったなどといわれていますが)、よりヴィルトゥオーソ的な技巧面に踏み込みはじめ、しだいに大曲なども手掛けるようになります。そうかと思うと、バッハやショパンにまでレパートリーを拡大していくのは、ますます異質な気がして首を傾げました。

もちろんその間のペライアの考えだとか、個々の事情などはわかるはずもありませんが、ともかく表に出てくるものは、専門店がだんだんデパート的になっていく感じとでもいえばいいでしょうか。

昨年のソロリサイタルや、今回のベートーヴェンの協奏曲4番も、ペライアが本来生まれ持った資質(やや小ぶりだけれどもとても美しいもの)の枠をはみ出してしまったようで、聴いていて何か収まりが悪いというか、演奏構成の弱さが感じられてしまうのです。
誤解しないでいただきたいのは、ベートーヴェンの4番がペライアの技量以上の作品といっているわけではなく、彼がやろうとしているパフォーマンスの目指すところが、潜在的な資質とは食い違ったもののように聴こえるということです。

喩えていうと、室内楽向きの優れた中型ピアノでチャイコフスキーやラフマニノフの協奏曲を弾くような、シューベルトの歌い手がヴェルディのオペラを歌うような、器の限界を超えてバランスを崩すようなものでしょうか。
生来の器にそぐわぬ「無理してる感」が、どうしても安心して聴けない原因なのかも。
指はよく動いて、テキストの流麗な美しさを追いかけるのはお手のものですが、上モノが重すぎると腰の座った演奏にならずに、作品の持つ内奥へどうしても入っていけません。

それでも、ペライアの出すブリリアントな音には品位があり、渦巻くような装飾音やスケールのたとえようもない美しさなどは健在で、このあたりはさすがというほかありません。ペライアのピアノは、演奏を通じて作品の核心に迫るというより、この随所に出てくる極上の装飾音やスケールに魅力があり、それを耳にするだけで価値があるのかもしれません。

ただし、フォルテシモなどでは上から叩きつけるような強引な弾き方になるのは、この人にそぐわない猫パンチみたいで、あまり無理をすると、また手の故障になりわしないかと要らぬ心配をしてしまいます。

ついでながら、以前もインタビューでベートーヴェンの熱情ソナタを何かの物語に喩えた発言に首をひねりましたが、今回は第2楽章が「オルフェオとエウリディーチェ」なんだとか、…。