『ピアノのムシ』3

『ピアノのムシ』の中に描かれているあれこれの内容は、多くのピアノ技術者および業界が抱える内なる心情が澱のように堆積していること、すなわちピアノを取り巻くの社会の恒常的不条理をマンガという手段を得て、おもしろおかしくフィクション化したものだと思います。

主人公の蛭田は、とてもではないけれど実社会では通用しそうにない不適合人物として描かれながらも、このマンガの中の真実を伝えるナビゲーターとして縦横に動き回ります。ここでの蛭田のワルキャラは、いわば意図された偽悪趣味なのであって、本当のワルはいずこやという点が、まるで対旋律のように流れており、これこそがこのマンガの核心であることは明白でしょう。

大手メーカーと小さな販売店の関係。あるいは販売店同士の戦い。
いたるところに見え隠れする卑怯で悪辣な手口。
ホールの官僚的な管理体制と、そこにつけこんで結託する指定業者の壁。
すべてを調律師のせいにするピアニストはじめピアノを弾く人達。
無理難題をサディスティックに押し付けてくる大メーカーや各関係者。
実力もないのに勘違いでピアノを弾くピアニスト。

いっぽうで、専門性を武器にお客にウソをも吹き込んで、無用の修理や買い替えを迫る技術者。
楽器の特質を知らず、却ってピアノをダメにしてしまう技術者。

とりわけお門違いの要求やクレームをつけてくる演奏者側のくだりは、マロニエ君も伝え聞いて知っていることも少くないし、いずこも同じらしいことを痛感させられます。

また調律師ばかりが被害者というのでもなく、これ自体もピンキリで、ピアノの修理に疎い客が、悪徳技術者に弄ばれることにも警鐘を鳴らしています。これをして「調律師と詐欺師は紙一重」だとまで言い切っているのは痛烈です。
調律師の個人的な悪行もあれば、メーカーの営業サイドの思惑を背負わされたケースもあり、まあどんな世界でも油断はできないということですね。

各場面で発射される蛭田の暴言の中には、実はとても聞き逃すことのできない、物事の深いところを突いた言葉が散見されます(具体的には書くのは控えますが)。
蛭田は、楽器メーカー、大手販売店、ホール、ピアノのユーザー、ピアニスト、ピアノ教師、さらには今どきの同業者など、ピアノ業界を生きていく上で避けては通れないもろもろの人物の大半を、一様に見下して軽蔑しているのでしょう。

しかも、それが本質においては勝手な決めつけではなく、蛭田の主張のほうがよほど常識的で、正当な根拠のある場合が多く、いちいちニヤリとさせられます。
それを蛭田というはみ出し者のキャラクター、さらには一見無謀な態度にかぶせながら、実はちゃっかり真実を語っているあたりは、なるほどマンガの世界にはこういう表現方法があるのかと感心してしまいます。

蛭田の痛烈な罵詈雑言の数々は、まともな技術者なら一度は言ってやりたい誘惑(衝動?)にかられる本音であり、場合によっては「叫び」なんだろうと思います。

蛭田には、調律師の国家資格もなければ、エメリッヒ(おそらくスタインウェイ)の認定技術者でもなく、調律師の協会すら所属していません。
肩書なんぞ「うそっぱち」というところでしょう。
実力ひとつで勝負しているまさに一匹狼というわけですが、その勝負にすら積極的ではなく、ほとんど世捨て人同然の生き方をする中で、唯一熱中するのが格闘技観戦というのもわかる気がします。
自分の身を置く世界には何ひとつ希望はないという諦観の表れかもしれません。

そういえば、マロニエ君の知る調律師さんの中にも、ピアノの音や響きには人一倍のこだわりがありながら、いわゆる群れをなさず、趣味はなんとボクシングという猛者がおられるのを思い出しました。