心理と味わい

近ごろはCDの聴き方ひとつにも、人それぞれの方法があるようです。
マロニエ君はスマホも持たず、音楽を聴くのは専ら自宅か車の中に限られ、まずイヤホンで聴くというのはありません。そのつど聴きたいCDをプレイヤーに入れて再生するという旧来のスタイルで、自分がそうなので、いつしかこれが当たり前と思い込み疑問にも感じていませんでした。

ところが、あるとき知人のメールによれば、CDをパソコンに読み込んで編集すると、曲のタイトル(トラック名)が表示されないことがあるらしく、それが非常に困るというのです。
トラック名なんてマロニエ君は意識したこともないことで、はじめはなんでそんなことが重要なのかピンとこなかったのですが、スマホやパソコンに音源を落とし込んで、そこからイヤホンなりスピーカーなりに繋いで聴くというスタイルでは、操作画面にトラック名が出ないことには曲を呼び出すこともできないわけで、ははあと納得した次第。

実は、マロニエ君もずいぶん前にiPodを買って、はじめは大興奮でずいぶん遊んだものの、しばらく使ってみて自分には合わないことがわかり、さっぱり使わなくなったことを思い出しました。さらに最近は、車にもハードディスクがあって音楽も相当量がここへ記憶させることができるので、一度読み込みをしてさえいればいちいちCDを出し入れする必要もありません。

こちらも始めの頃は感激して、せっせと読み込みに専念し、あげく一大ライブラリーといえば大げさですが、そういうものを作ったものでした。
ところが、車に乗り込み、エンジンをかけてさあ出発という一連の動作の中、あるいは走行中の信号停車中などに、この呼出操作をするのが(マロニエ君が苦手なせいもありますが)甚だ煩わしく、時間もかかり、鬱陶しくなり便利なはずのものが却ってストレスの原因になることがわかりました。

また、何を聴こうかという当てをつけるのも、トラック名がやみくもに並んでいるだけでは興が乗らず、最後はいつも適当というか、妥協的なものを聴くハメになるだけでした。
要するに選択範囲が多すぎて、しかもそれを液晶の無機質な文字だけでパパッと選択するという行為が、感覚上の齟齬を生み、自分にとっては快適な流れが生まれなかったわけです。

その点でいうと、自宅でCDケースの山の中から何を聴くかを決めるのが自分には自然であるし、車の中でもせいぜい50枚足らずのコピーCDを差し込んだファイルケースをぱらぱらめくりながら探すくらいが規模的にもちょうどよく、無用な神経も使わず、以来ずっとこの方法で通すようになりました。

しかし、今や時代の波はそんな悠長な感覚を顧みるひまもないほど進化し、すでにCDという商品を購入することさえどこか時代遅れの行為となりつつあって、とてもではありませんが感覚がついていけません。

本でも電子書籍などがどれほど流行っているのかいないのか知りませんが、とてもそんなものに切り替えようとは思いません。もちろんちょっとしたニュースをネットで走り読みするぐらいはいいけれど、いわゆる読書をするのに、液晶画面を相手にしようとはまったく思わない。
実際の本を買うほうが、値段も高く、場所もとり、将来はゴミになるかもしれないという主張もあるようですが、それならそれで結構。それでも紙に印刷された本のページを繰りながらゆっくりと読み進むことが読書の楽しみだと思うのです。

その点では、音楽は実際のコンサートでない限り、イヤホンやスピーカーから良質な音が出てくればいいわけで、この点では読書よりいくぶんマシのようではありますが、しかしマロニエ君にいわせれば、そこにもちょっとした違いはあるように思います。

昔はレコードを聴くといえば、大きなLPを注意深く取り出して、うやうやしげにターンテーブルの上に置き、慎重に針を滑らせてという、いまから考えればいささか滑稽ともいえる手順が必要でした。
しかし、その中に、音楽を聞くための心構えや集中力、期待感などもろもろの心理がうごめいて、出てくる音を耳にする前段からそれなりの盛り上げの効果があったようにも思います。

同じようなことが、今ではCDをケースから取り出してプレイヤーに入れ、再生ボタンを押すまでの手順の中に少しは生きているような気がしなくもないのです。少なくとも電話やメールをして写真や動画を撮って、ゲームに興じ、さらには無数のアプリ満載の小さな機械の中に一緒くたに入った音楽を聴くよりは、よほど情緒的なアプローチのようにも思うわけです。

実務実用の事ならそれも構いませんが、音楽や文学に接するときまで、極限まで追求された便利の恩恵に預かろうというのは、なんだかスタートから違うような気がするのですが、まあこれも今自分がやっているスタイルを無意識のうちに肯定しているだけなのかもしれません。