少し前に放送されたNHK交響楽団とパーヴォ・ヤルヴィによる演奏会には、オールフランスプログラムというのがありました。世間の受け止め方は知りませんが、個人的にはこの組み合わせでフランス音楽というのはずいぶん意外でした。
ドビュッシーの牧神の午後、ラヴェルのピアノ協奏曲、後半はベルリオーズの幻想交響曲というものですが、ヤルヴィとフランス音楽というのはどうなんだろう?という思いを抱くのが、なんとはなしに率直なイメージです。
ヤルヴィのみならず、そもそもN響とフランス音楽というのも、デュトワとはずいぶんやったかもしれませんが、それでも個人的イメージではしっくりはきません。
ボジョレー・ヌーボーが解禁などと言って、どれだけワイワイ騒いでみても、悲しいかなサマにならないようなものでしょうか…。
幻想交響曲のような大仰な作品はまだしも、ドビュッシーやラヴェルというのはこの顔ぶれではまったくそそられないのですが、そうはいってもヤルヴィはパリ管弦楽団の音楽監督であった(現在も?よく知らないが)のだから、まあそれなりの演奏はおやりになるのだろうと思いながら聴いてみることに。
出だしのフルートからして、いきなり雰囲気のない印象で、曲が進むにつれ、しっくりこないものがだんだん現実となって確認されていくみたいです。さだめしスコア的には正しく演奏されているのでしょうが、そもそもこの曲ってこういうものだろうかという気がしました。
牧神の午後に期待したい異次元の光がさすような調子というか、名も知らぬ花がしだいに開いていくような空気は感じられず、ただ普通にリアルで鮮明な演奏であることで、むしろ難解に聴こえる気がしました。
個人的にはヤルヴィの本領は別のところ、すなわちドイツ音楽やロシアその他の、いわば立て付けのしっかりした強固な作品にあるような気がします。
彼に限らず、現代の(それも第一級とされる)演奏の中には、わざわざ説明するようなことではないことまで敢えて説明しているような演奏にしばしば出会うことがあります。野暮といっては言葉が悪いかもしれませんが、ようするにそんな感じを受けることが少なくない。
それは進化した技巧と洗練されたアプローチによって、作品の隅々まで見渡すような爽快さがある反面、理屈抜きに音楽を掴む直感力だとか演奏者のストレートな感興、音がそのまま言葉となって聴く者に訴えてくるような醍醐味はやや失っているのかもしれません。
理知的な解像度の高さばかりに目が向いて、率直な感受性や表現意欲の比重が減っているのは、多くの現代演奏に感じるひとつの大きな不満ではあります。
ラヴェルのピアノ協奏曲のソリストはジャン・イヴ・ティボーデ。
昔から、この人の演奏はあまり好みではなかったので、まったく期待していなかったのですが…だからかもしれませんが、意外にもこのときはそう悪くない演奏だったので、これは申し訳なかったと心の中で思いました。
無意味なピアニズムや情緒に陥らず、ラヴェルの無機質をむしろ前に出してきたことで、そこにだけパッとフランス的な屈折した花が咲いたような趣がありました。
また、以前と印象が違ったのは、いかなる音にも好ましい肉感と節度があって、これがもしブリリアントなだけの派手派手しい音であったなら、ラヴェルの無機質が咲かせる花は、またずいぶん違った姿形になったように思います。
*
フレンチピアニストの名前が出たついでに書くと、ジャン=クロード・ペヌティエのCDで、フォーレ・ピアノ作品第1集を買ってみました。というのもペヌティエというピアニストのことはほとんど何も知らず、ラ・フォル・ジュルネで来日して好評であったということがネットでわかったぐらいで、音としてはまったくの未体験であったので、ぜひ聴いてみたいと思ってのことでした。
あれこれの評価では「弱音の美しさ」「洗練された味わい」「ペダリングの素晴らしさ」といったものが目に止まりましたが、マロニエ君に聴こえたところはいささか違いました。
まず印象的なのは、フランスのピアニストにしては渋味のある楷書の文字をていねいに書くような演奏で、しかもそこに余計なクセや装飾が一切存在せず、純粋に楽曲を奏することにピューリタン的な信念をもったピアニストというふうに映りました。
シューベルトの後期のソナタもあるようなので、マロニエ君のイメージではフランス人のシューベルトというのは痩せぎすで、それほどありがたいもんじゃないと思っていますが、これだったら聴いてみたくなりました。
ピアノはまったく気が付かなかったけれど、ジャケットの中の記述をよく見ると小さくBechsteinとありました。へぇ!?と思って耳を凝らしてもそれらしい声はさほど聴こえてこないので、おそらく最も普通に洗練されていたD280だろうかと、これまた勝手な想像をしているところです。
ペヌティエは教師としても名高いようで、かなりのベテランのようですが、スタインウェイでもヤマハでもないピアノを選ぶあたりに、氏の目指す独自の境地があるのかもしれません。