瀬戸内寂聴

NHKによる瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーが(たぶん再)放送されたのは年末でしたか…。
「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」と題する、御年93歳の僧侶にして現役作家の今を見つめる番組で、なんとなく録画していて、このところ音楽番組も面白いものがなく、これを視てみることに。

いつもながらの飾らない軽妙な語り口には人を惹きつける魅力があり、いまだ衰えぬ明晰な頭脳とあいまって感嘆するばかりです。

ただ、NHKが500日も密着したせいもあるのかもしれませんが、いかに瀬戸内さんとはいえ、あそこまで自分の日常をカメラの前へとさらけ出し、それを公共の電波を使って全国に流す意味が果たしてあるのか…この点は大いに疑問が残りました。
しかも、度重なる交渉の末かと思いきや、瀬戸内さんのほうでも『私が死ぬまでカメラを回しなさい』とおっしゃっているとかで、そのなんとも高らかな言葉にはハァ…という感じ。

いまさらいうまでもないことですが、瀬戸内さんは瀬戸内晴美として作家業を続けられ、51歳のときに出家、俗世を捨てて寂聴となります。得度してからも作家業は継続するという二足のわらじ状態。
物書きを生業としながら激しい恋愛の渦の中に生きてきた女性が一転、剃髪し、僧侶となり、法衣をまとい、多くの人々に法話というお説教をしてまわっておられるのは多くの人の知るところです。

ところが、その日常は法衣はおろか、大阪のおばちゃんもびっくりするようなド派手なセーターとパンツ姿で、食卓には高カロリーのコッテリ系メニューが並び、おまけにアルコールが大好物だというのですから驚きです。

中でものけぞったのは、脂のほうが多いのでは?と思うような霜降り肉(マロニエ君はこれが苦手)がいつもテーブルに準備されていること、くわえて毎夜のごとく背の高いワイングラスにはなみなみと美酒が注がれ、声高く「カンパ~イ!」といってはたいそうなはしゃぎっぷりで、僧侶とは何か…わからなくなる瞬間でした。
もちろんこれ、個人の自由のことを言っているのではありません。
また、僧侶たるものがすべて品行方正な日常を送っているとも思っていません。

しかしマロニエ君の知る限りでは、僧侶の食事は本源的にはお精進であろうし、実際そうでないものを口にすることはあっても、それはあくまでちょっと控えたかたちでというのが長らくの認識でしたから、これには度肝を抜かれました。

すくなくともテレビカメラの前で、なに憚ることなく「牛肉牛肉…」といいながら、霜降り肉をがっつり頬張っては傍らのアルコールを流し込み、キャッキャとはしゃぎまわる寂聴さんの日常というのは、普通人でも相当にはじけているほうで、マロニエ君の目にはかなり奇異なものに映ったことは事実です。

逆にいうと、もともと小説家はいわば芸術家の端くれでもあるわけで、そんな道を歩んできた人が人生の途中で出家して、剃髪し庵まで構えたからには、それなりの一線や境地がありそうなもんだと思っていました。
これでは、出家前と現在とでは、精神的にどれほど違うのか、マロニエ君のような凡人にはよくわからなかったし、番組も瀬戸内さんの何を伝えようとしているのか意味不明に感じました。

そういえば年末の報道番組では、寂聴さんが安保法案に反対する永田町周辺の抗議活動の中へ出かけて行って、デモに協調する声を上げたことをして、穏やかながらも一定の批判めいた調子であることは印象的でした。
「戦争というものにはね、良い戦争も悪い戦争もないんですよ!」

戦争が悪いことだというのは、なにもいまさらこと改まって言われなくてもみんなわかっていることで、安倍さんだって百も承知のはずで、言葉のすり替えにしか思えません。
おまけに、永田町から京都の寂庵に戻った折にスルリと口から出たことは、「たまには出かけて、おもしろかった!」というのですから、それはちょっとどうかなと思いました。

出家して40年以上経ったこの方の様子を見ていると、逆に俗世間の匂いを感じてしまうのは、なんとなく皮肉な感じが終始つきまといました。そう思ってしまうと、カラフルなセーターの襟首からでたそのおつむりも、今どきのスキンヘッドのようにも見えてしまいます。
マロニエ君は普通に本は読む方ですが、思えば瀬戸内さんの作はほとんど読んだことがなく、唯一源氏物語だけは全巻揃いで購入してしばらく読んでいましたが、どうもしっくり来ないで半分にも達しないところでやめてしまったことを思い出します。

ちょっとおしゃべりを聞いている分には面白いし、とりわけ平塚らいてうなどを中心とする明治の女性の生き様や恋愛事情などを語らせるといかにもこの人の本領という感じはしますが、ここ最近はいささか手を広げすぎておられるのかもしれません。