いさぎよさ

CDを購入する際、昔は作品や演奏家に重点をおいていたものですが、最近は特にこの人という演奏家もめっきり減ってきたこともあり、レーベルや使用ピアノ、録音場所などで選んでしまうこともしばしばです。

以前、たまたまネットで購入したエデルマンのショパンは、レンガ積みの建物のような演奏に加えて、ピアノの音がえらく鮮烈でインパクトがありました。ショパンの演奏としては理想的とは言いがたいけれど、聴こえてくる音には近ごろは絶えて聞かれなくなった輪郭と力強さがあり、このCDには不思議な魅力がありました。

あとから知ったことですが、収録場所である富山の北アルプス文化センターにあるスタインウェイは評判がよく、レコーディングにも多く使われていることを知り、大いに納得したのは以前書いた記憶があります。
そこで二匹目のドジョウよろしく、同じ会場/ピアニストによるシューマンも聴いてみたところ、こちらはさらに打鍵が強烈で、残念ながらマロニエ君には楽しめないものでした。

そこで、やはり北アルプス文化センターで録音された菊地裕介さんのシューマンを買ったところ、演奏も清流を泳ぐ魚のようであるし、なにより音がきれいでみずみずしいことはエデルマンの比ではありませんでした。

演奏も好ましいもので、ひたすらピアノの音の美しさを楽しむ最良の一枚となり、ずいぶんと繰り返し聴いたものです。
曲もダヴィッド同盟とフモレスケという質・規模ともにシューマンのピアノ曲の中でも、最上級に位置する作品でしたが、あんまり聴いているとさすがに別のものも聴きたくなるのが人情です。

そこで菊地さんのディスクを探したところ、同じ会場で録られたベートーヴェンのピアノソナタがあることが判明。
とりあえず「ファンタジア」と銘打たれた2枚組は、初期の傑作である第4番からはじまり第9~15番までの8つのソナタが入っています。

第4番冒頭から、やや早めのテンポでスイスイと弾き進められ、重厚さを伴った伝統的なベートーヴェンのソナタ演奏とはまったく異なり、テクニックに任せてあまり深く考えることなく次々に音符が処理されていくといった印象を持ちました。ひとつひとつの意味や表情を深く掘り下げて思索的かつ深刻なドラマとして捉えるのではなく、いかにも現代的な軽さと流麗さが支配しており「ああ、この手合か」といささか落胆しました。

しかし、このCDを買った目的は好ましいスタインウェイの音を楽しむことだったと思い直します。演奏のディテールは気にしないことにして、とにかく音を楽しむことに意識を切り変えようとしますが、人間というのは皮肉なもので、演奏に集中しようと思うと楽器の音が気になるし、楽器の音を楽しもうとすれば演奏の在り方が気にかかるのです。

それでも仕方なしに一枚目を鳴らしていると、しかし不思議な事に、このえらく快適な感じのベートーヴェンを聴くことに不思議な気持ちよさが加わり、これはこれでそう悪くはないのでは…と感じ始めました。そのひとつは表現に嫌味や不自然な点がまるでなく、技巧が上手いといって、ただ弾けよがしに弾いているのでもない、終始一貫したひとつの世界が構築されているらしいことが時間経過とともに伝わってきたのです。

と、あらためて耳を凝らしてみると、この人、今どきのテクニック抜群のピアニストの中でも、さらに頭一つ出た相当上手い人だと思えるし、音符を執拗に追い回して、無理に意味をもたせ、それによって全方位的な評価を得ようといったような企みがないらしいことがわかりました。
前例に囚われることなく、「ぼくはぼく」とばかりに正直に自分の感性の命じるままに弾いているようで、しかも表現に芝居がかった偽装の跡がなお。そこが逆に純粋で俗っぽくないという感じを受けたわけです。

マロニエ君は折に触れて書いているように、音楽家のくせに、不感症のアスリートに近いような演奏家が、音楽を「感じている」ようなフリをした演奏が大嫌いです。それはウソの行為であり、いわば演奏上の卑猥さという気さえするからです。

その点でいうと菊地さんのピアノは、まず自分がこういう演奏がしたいというメッセージがはっきりしており、聴く者を心地よい音楽の世界へといざなってくれることがわかりました。そういう意味でひじょうにナチュラルな演奏ですが、同時に目的が明快で、あれもこれもという欲がなく、魅力を特化したとても勇気のある演奏だと言えると思います。

一見無機質な音の羅列に見える危険もある中、さにあらず、聴く者に音楽の心地よさと喜びと提供できるのは、菊地さんが虚飾を排した涼しい演奏に徹しておられるからこそだと思います。

音楽で虚飾を排するというと、だいたい質素なオーガニック調で、冒険を排し、全体に小さめの音で演奏しているだけ。あれこそ上から目線で、抑制していることを見せつけるイヤミな演奏だったりします。

まずは楽しめなくてはそもそも音楽の存在意義が問われることにもなりかねません。
情報過多の時代において、とりわけクラシックでは古典主義がいまだに中央を陣取っており、これも一度は通過することは意味が大きいと思いますが、清潔と安全管理が行き過ぎると、音楽の持つ恍惚感など本能的な魅力や創造性が失われ、どれもこれもが取りつくろった建前のような色合いを帯びてしまいます。

菊地さんのピアノを聴いていると、彼なりのスマートなやり方で、そういう間違った道筋に警鐘を鳴らしておられるような気がしてしまいます。