田崎悦子

BSクラシック倶楽部で、昨年11月に東京文化会館少ホールで行なわれた田崎悦子ピアノリサイタルの模様が放送されました。

田崎悦子さんの実演は聴いたことはないのですが、CDは何枚か持っていて、バッハのパルティータなどは厳さの中に鬼気迫るような生命感が満ちていてとてもよく、ずいぶん聴いたCDでした。

このところCD店で目についていたのは、この方の新譜で、なんとブラームスのop.117/118/119、ベートーヴェンのop.109/110/111、シューベルトのD.958/959/960というこの上なく濃厚な作品を集め入れた、4枚組のアルバムでした。

なんと思い切ったCDか!というのが正直な印象で、昔ならこういう選曲はよほどの大家でもできなかったことかもしれません。
同時に、この三人の作曲家最晩年の象徴的な傑作ばかりを、3つずつ組み合わせて並べましたという、音楽的必然性のなさが見え隠れする印象もないではありません。
でもまあ、これはこれで面白いので、本当なら買ってみたいところでしたが、6480円ともなると安くもないし、それでも敢えて買うにはよほど内容に期待できるところがなければ…という面があり、まだ買っていないところにこの放送でしたから、まさにうってつけのタイミングだったわけです。

まずはベートーヴェンの最後のソナタ。
ステージにあるピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、これまでの田崎さんの、どこか自分を追い込んでいくような熱っぽい演奏の印象からすると、この選択は「???」という感じでしたが、その杞憂は開始早々現実のものとなりました。

冒頭の激しいオクターブとそれに続く和音は、なにやら虚しく、ずいぶんと頼りなげにほわんと響きました。
正直いうと、このベートーヴェンは少し予想外で、CDをリリースするからにはよほど手の内に入った、説得力のある演奏が期待できるのだろうという気がしていたのですが、少なくとも111では熟成不足という印象を免れないものでした。
また意外なことに、技術的にもずいぶん危なっかしい場所が散見され、この崇高なソナタを堪能するまでには至らなかったというのが正気なところ。それに追い打ちをかけるようにベーゼンの先の細い体質が浮き彫りとなり、残念ながらベートーヴェンの作品の姿を描ききることが苦手なように感じました。

ピアニストとピアノ、いずれの要素によるものかはともかく、何かが表現として伝わってくることはないまま、どこかハラハラさせられながら111は終わりました。

それが多少なりとも挽回したのは、時間の関係で第一楽章のみだったシューベルトのD.960で、ベートーヴェンに較べてはるかに自然で弾き込まれている様子がみなぎります。このピアニストの奥深いところまでこの作品が根を下ろしていることがわかり、印象は好転しました。
暗譜と練習成果に依存するのではなく、弾き手に作品が深く刻み込まれているおかげで つぎつぎに曲が自発性を持って展開します。

さらにはピアノもシューベルトとベーゼンは仲がいいようで、ベートーヴェンのときに感じたようなハンディはずっと後方へ退きました。

ベーゼンドルファーというピアノは、それ自体とても魅力的で個性的で、その丁寧な造りには工芸的な美しささえあるけれど、これ一台で演奏会をまんべんなくカヴァーしていくのは難しいなぁ…という気がしてしまうのは、今回も例外ではありませんでした。
この楽器でなくては出せない美しさや絶妙のニュアンスがあるのは確かだけれど、同時にダイナミクスやオーケストラ的な広がり、モダンピアノに求められるパワーやメリハリなど、多くの制限制約を受けることも実感させられます。

田崎さんはいわゆるハイフィンガー奏法なのか、いつも手の甲を立て、指はハンマーのように忙しく上下する様子は、思えば、昔の日本人はみんなこんな弾き方をしていたなあと、まるで昭和の思い出にふれたような懐かしい気がしました。