マリナーとオピッツ

90歳を超えたネヴィル・マリナーがN響定期公演の指揮台に立ち、お得意のモーツァルト(ピアノ協奏曲第24番)とブラームス(交響曲第4番)を演奏し、クラシック音楽館の録画から視聴してみました。

ピアノは今やドイツを代表するピアニスト(?)のゲルハルト・オピッツ。
冒頭のインタビューではモーツァルト演奏に際して、いろいろと尤もなことを言われていました。
例えば、
「モーツァルトの場合、大げさにならないようにすることが大切」
「歌わせる部分も過度に感傷的になってはいけない。モーツァルトの音楽に真摯に忠実に取り組む。」

ただ実際の演奏は、マロニエ君の耳にはいささか典雅さの足りない、ひと時代前の演奏のように聴こえました。
指の分離が優れた人ではないのかもしれませんが、タッチが重く、どちらかというと団子状態になりがちなのはきになりました。
独奏ピアノが作品の中で自在に駆け動くという感じがせず、常に前進する全体のテンポに追い立てられ、なんとかそれに遅れないよう気を張って弾いているようで、そういう意味での硬直感が全体に感じられました。

すべての音楽がそうですが、とりわけモーツァルトでは曲そのものが含有する呼吸感の美しさを表現して欲しいのですが、オピッツのピアノは、その点で関節の固い、息が詰まった感じがします。

マリナーの指揮はいつもながらの流麗で心地良く、懐かしい感じがあってホッとすると同時に、古楽奏法の出現によりモダン楽器のオーケストラでさえ、そのテイストを多少採り入れることも珍しくない今日の基準からすると、ふしぎなことにやや古いスタイルといった印象をもったことも事実でした。

古楽の出始めのころは、その独善性というかピューリタン的なものを無理に押し付けられるようでなかなか受け付けられませんでしたが、さすがに最近では研究も進み、演奏としての洗練の度も増して、音楽の新しい喜びを感じるようになったということだろうと思います。

そういう意味ではマリナーもオピッツも、どこか昔もてはやされた服をまだ着ているようでもありました。

冒頭のインタビューに戻ると、「(素晴らしい作品で)弾くたびに新しい発見があります。」というのは、このフレーズはもういいかげんみんな止めましょうよといいたくなります。
それがいかに真実だとしても、あまりに言い古された言葉というものは、もうそれだけで陳腐になってしまって、素直な気持ちで聞く気になれません。この人はインタビューを受けるたびに何度このフレーズを口にしていることかと思いますし、これはなにもオピッツ氏だけではなく、多くの演奏家が判で押したようにこれをいうのは、聞いているこちらが赤面しそうになります。

でもしかし、インタビューでは「なるほど」と思う言葉もありました。
「もし客席にモーツァルトが座っていたら、ほほえんでもらえるような演奏を目指しています。」
これは実にその通りだと思いました。マロニエ君も、素晴らしい演奏、ひどい演奏に接するたびに、もし作曲者にこの演奏を聴かせたらなんというだろうかという想像はいつもよく考えてみることです。

オピッツ氏はモーツァルトではそれほどの出来とは思えませんでしたが、後半のシンフォニーへ繋ぐように、アンコールではブラームスのop.116-4が演奏されました。
こちらははるかに好ましい、じっと味わえる演奏でした。
厚みがあり、ブラームスの音楽の深いところまで見えてくるようないい演奏だったと思いましたが、この人はモーツァルトよりもこういう性格の曲のほうが合っているのでしょうね。

実際の演奏会では、本来のプログラムよりアンコールのほうが素晴らしい演奏になることはよくあることで、この事自体は珍しくもありませんし、実はアンコールで聴衆への印象を挽回する演奏家も多いだろうといつも感じています。

演奏会ではプログラムが終わると、アンコールを弾かせなきゃ損だとばかりに要求の拍手が継続することがあって、この空気は嫌いですが、実はアンコールのほうが奏者もやっと義務が終わって気分がほどけてくるのか、はるかにリラックスした、それでいて音楽的に集中した演奏をここから始めることが多いので、そういう意味ではこちらに期待するという部分があるのも事実です。