視覚的要素

BSのクラシック倶楽部から。
大阪のいずみホールでおこなわれたクラリネットのポール・メイエとピアノのアンドレアス・シュタイアーのソリストによるモーツァルトの2つの協奏曲で、オーケストラはいずみシンフォニエッタ大阪。

最晩年の傑作として名高いクラリネット協奏曲と、ピアノ協奏曲ではこれもまた晩年の作であり、最後のピアノ協奏曲となる変ロ長調KV595といういずれもモーツァルトの中でも特別な作品です。

シュタイアーならばてっきりフォルテピアノで演奏するのかと思っていたら、クラリネット協奏曲のときから、ステージの隅には大屋根を取り払ったベーゼンドルファー・インペリアルが置かれていました。

ところで、古楽演奏家の多くがそうであるように、シュタイアーもその出で立ちはきわめて地味な、むしろ暗い感じが目立ってしまうような服装であらわれますが、この人にかぎらず古楽の人たちの雰囲気はもうすこし爽やかになれないものかと見るたびに思ってしまいます。
誤解のないように言っておけば、そもそも、マロニエ君は演奏家がむやみに派手な服装をする必要はまったくないと思うし、わけても日本の女性奏者の多くのステージ衣装センスはいただけないし、見ているほうの目を疲れさせるような派手すぎる色やデザインのドレスにはまったく不賛成で、やり過ぎや悪趣味は演奏家としての見識さえ疑うとかねがね思っています。

クラシックのコンサートはファッションショーではないのだから、それに相応しい節度と、本当の意味でセンスある服装が理想だと思うのです。
いっぽう、過剰な衣装の対極にあるのが古楽演奏者たちで、あれはあれでひとつの主張なのだろうと思いますが、極端なまでに質素で地味な、どうかするとくたびれたような服であることも少くなく、これで煌々とライトのあたるステージへ平然と出てくるのは、これはこれで何だかイヤミだなあと思います。
「自分たちは着るものなんてどうでもいいんだ。音楽にのみ身を捧げ、全エネルギーを傾注している。」といった強いメッセージが込められているように感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

演奏家の服装は、良くも悪くも、地味も派手も、あまりそれを意識させない程度の、お客さんを不快にさせない程度の小奇麗な身なりであってほしいと思いますし、その範囲内でさらに素敵な衣装であればもちろんそれに越したことはありません。
そういう意味では、シュタイアーは古楽の人たちの中ではもしかするといいほうかもしれない気もしますが…。

演奏については、以前同番組で放送されたヴァイオリンの佐藤俊介氏とのデュオで見せたモーツァルトのソナタでは、フォルテピアノを使っての闊達なモーツァルトであった覚えがありますが、今回その印象は一変しました。
歴史的スタイルに鑑みてか、モダンピアノでもつねにピアノは通奏低音のように弾かれていますが、肝心のソロでは一向に華がなく、ひとつひとつの音符の明瞭さやフォルム、シンプルの極地にありながらセンシティヴに変化する和声などが聴く側にじゅうぶん届けられないまま、ひたすらさっさと進んでいくようでした。

現代のピアニストの演奏クオリティに耳が慣れている我々にとっては、どこかものたりないアバウトな演奏で、とくにこの最後の協奏曲の繊細かつ天上的な美しさといったものには触れずじまいだったという印象。

ピアノはシュタイアーの希望もあったのか、通常以上にピアノフォルテ的なテイストのピャンピャンいうような音だったように感じました。
どうでもいいことではありますが、ベーゼンのインペリアルは大屋根を開けてステージに横向き置くと、視覚的にいささかグロテスクな印象がありますが、今回のようにいっそ外してオケの中に突っ込んでしまったほうが、よほどすっきりした感じに見えました。

見た目の話でついでにいうと、大阪(というか関西)のオーケストラでは、どこも必ずと言っていいほど女性団員が色とりどりの衣装を着ているのはなぜなのか…。このいずみシンフォニエッタ大阪に限らず、ほかの関西のオーケストラでもほぼ同様で、男性は黒の燕尾服等を着ているのに、女性はソリスト?と思うようなドレスを皆着ており、色もバラバラ、あれはどうも個人的には落ち着きません。

海外の事情は知りませんが、マロニエ君の記憶する限り、オーケストラの女性団員がこれほど自由な色使いのドレスを着ているのは国内では関西だけのような気がします。「衣装は音楽とは無関係」ということなのか「華やかで舞台映えする」という感覚なのか、いずれにしろどうも個人的に気になることは事実で、正直いうと音楽まで違って聴こえてしまうようです。

音楽がいくら「耳で聴くもの」とはいっても、視覚的要素も大切だとつくづく思います。