距離をおくと

過日ピアノ関連の来客があり、ディアパソンをしばらくお互いに弾きながら、その音色を確認するということができました。

ピアノの音は場所によって聴こえ方が変わるにもかかわらず、演奏する者はその場所を変えることはできません。
せいぜい大屋根の開閉か、譜面台を立てるか倒すかぐらいなもので、音を出す人間が場所を変えて聴くということは絶対不可能という物理的事情がありますね。

どんなに慣れ親しんだピアノでも、ピアノから距離をおき、客観的にその音を聴いてみるためには、必然的に別の人が演奏している間だけあれこれと場所を移動してみるしかないのですが、この日はそれがかなり自由にできました。

そこでいまさらのようにわかったことは、演奏者にとっては鍵盤前に座るというあのポジションは、音響的にはかなり好ましくはない場所のようだということでした。

ピアノからわずか1mでも離れると、もうそれだけで聴こえてくる音は変わるし、2m、3mと距離を変えるたびにさらに聴こえ方はいろいろな表情を現しながら変化します。また、離れた場所でも椅子に座るか立つかでもおもしろいほどその聴こえ方はころころと変わり、こんなにも違うのかと呆れてしまいました。ある程度はわかっていたつもりだったのに、あらためてその変化の大きさには驚きとおもしろさと新鮮さを感じてしまいました。

少し離れた位置で聴くということは、考えてみれば調律のときにそれがないではないけれど、やはり調律と演奏はまったく別のことであるし、楽器は曲になったときに真価をあらわすわけで、やはりどんなに優しいものでもいいから曲を弾いてもらわないことには、「音」をたしかめることは出来ないと思いました。

それともうひとつ、当たり前というか、わかりきったことを再確認したという点でいうなら、少なくともグランドピアノは(とく大屋根を開けた状態であれば)、楽器のサイドから聴くのが最高であることを痛感させられました。
いわゆるコンサートでステージ上に置かれたあの向きで聴くのは、やはり正しいようですね。

ふだん自分のピアノは自分が弾くだけだから、このようにサイドからそのピアノが出す音を曲として聴くことがないのは、ピアノの所有者として、なんという残念無念なことだろうかと思わずにはいられません。
どんなに素敵な車に乗っていても、それが街中を疾走していく姿を、ハンドルを握るドライバーは決して見ることができないのと同じです。

なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、手前味噌で恐縮ですが、それほど自分で弾いているときにはわからなかった音や響きが想像していたよりすばらしく、ばかみたいな話ですが、思わず自分のピアノに陶然となってしまったからなのです。
さらにわかったこととしては、床と並行のボディより、わずかでもいいから耳が上に位置するほうがいいということ。

耳の位置が低すぎると、響板から発せられる音の大半が大屋根から反射されたものばかりになるのか、やや輪郭がぼやけるようで、中腰から立ったぐらいの、つまりすこし中のフレームが見えるぐらいのほうが断然いいこともわかりました。

要するにそのピアノにとっての特等席は、楽器から少し離れた場所であるということで、その最たるものはステージです。(ただしピアノのお腹が見えるほど低い座席ではなく、最低でもフレームの高さ以上であるべきだと思いますが。)
ステージのピアノを弾くと、音は会場の音響効果と広い空間のせいで風のように客席側に飛んでいってしまい、むしろあまり音が出ていないように感じることもありますが、あにはからんや客席ではかなりの音量と美音で鳴り響いており、そのギャップに驚嘆したことも何度かありました。

それなのに、ピアニスト(というか演奏家)は絶対に自分の演奏を客席から聴くことができないのは皮肉なものですが、そのことは家庭のピアノでも、次元は違っても同様のことがあるというのは発見でした。