捨てること

いつごろからであったかは覚えてもいませんが、巷に「断捨離」という言葉がえらく流行ってもてはやされた時期がありました。
ウィキペディアで調べてみると「不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと」とあり、「人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。」と説明されています。

まあ、それはある意味そうだろうと思うし、一面においては共感できなくもないことではありました。
しかし、それの「専門家」のような人物がやたらテレビに出てきて本まで出して、さもその道の大家のような顔をしていちいち上から教えるような物言いを展開、果ては人生訓まで垂れる様子が嫌だったことを覚えています。
マロニエ君は本質的には共感するところがあっても、高い場所からものを言いお説教するような態度に出られると、その抵抗感のほうが先に立ってしまってそんな話は聞きたくなくなるので、あまり自分の生活に活かすところまでは行きませんでした。

ところがこのところ、とくに深い理由はないけれど、自分の生活空間が乱雑や混沌であふれるのはやっぱり嫌なので、少しずつ要らないものを処分することを心がけるようになりました。
これまでも不要なものの整理・処分は必要という考えそのものはあったけれど、ご多分に漏れずなかなか実行が伴わなず、頭では思っても「着手」そのものに手間取っていた側面が大きかったように思います。
とくに期限があるでもない事なので、そのうちそのうちと先延ばしをするうちそれが常態化するので、実際に手をつけること…が最大の難関なのかもしれません。
こわいのは、人間は自分の生活エリアというか身のまわりのことになると、毎日目にするため感覚が麻痺してしまい、そのだらしなさや無様な姿を客観的にとらえることができなくなってくることだと思います。しかし、よその家にお邪魔すると、こう言っては申し訳ないけれどイヤというほどそのあたりが新鮮に見えてしまい、自分のことは棚に上げて「よくこんな状態でなんともないなぁ!」などとエラそうに思ってしまいますが、ある程度はこれは自分も同様だろうとも思うわけです。

自分の家の中のいろいろな部分を、他人が新鮮な目で見たらどう思うだろうかということを考えてみると、ふっと恐ろしいような気になり大いに焦ります。

で、すこしずつ要らないものを処分してみると、意外や意外、結構それが楽しいというか心地よいことに開眼しました。
さらに、その余計なものが貴重な生活空間をずいぶんと占領して、心までもが雑然としたゴミゴミした気分にさせているということが、あれこれ捨ててみてはじめてわかります。

むろん個人差はあると思いますが、要らないものを捨てるというのは、ちょっと習慣になるとかなり快感になってきて、つぎつぎにやる気が起きてくるのは自分としてはいいことだと感じています。それほど余計なものに囲まれて、心理的にも重く暑苦しくのしかかっていることは、要らないものを捨ててみて、気持ちが軽くなってみると如実にわかりました。

無理して必要以上になにもかも捨ててしまうことはないと思いますが、ある程度よけいなモノがなくなると、気持ちまで爽やかになってくるのが嬉しくて、まったく後悔などないものですね。いちばん足を引っ張るのは「これは何かのときに役に立つかもしれない」などとケチなことを思うことで、実際に役に立つ局面なんてまず殆どありません。
万にひとつもそんなことがあっても、それがなんだと思えばすむことで、それより快適な時間や空間のほうがはるかに重要だと、マロニエ君は思えるようになりました。