豊かな気分

つい先日、不要なものを処分して効率的な時間と空間を手に入れることは甚だ快適であるというようなことを書きました。
世の中には、そんなことは先刻承知で普段から実行されている方もいらっしゃるとは思いますが、マロニエ君のような凡人の場合、自分が考えている以上に不要で無意味なものに取り囲まれて、気がつけば貴重な生活空間が侵食されていることを痛感しているこの頃です。

我が家はガレージも同様で、とりわけマロニエ君の車好きが災いして、使う当てもないパーツやケミカル品やその他諸々のものが文字通り山積していて、実は数年前にあらかたの整理をし、無駄なものは大いに処分した「つもり」でした。

しかし、あらためて見てみると、それはまさに下ごしらえ程度のことであって、本当の整理整頓とは程遠く、ついにこのエリアへ手を付けることにしました。
前回、整理と処分で一番難儀なことは「着手」することだと書きましたが、その意味では、ともかく手を付けたということが大きいと自画自賛しているところです。

それにしても驚くべきは、要らないものというのは、いたるところで予想以上に存在しており、それらが集積蓄積されて貴重なスペースを相当量侵害し、さらには当人はそれにほとんど気が付かない点だと思います。

だからといって前回も書いたように、必要な物、あるいは取っておきたい物まで無理して捨てる必要はまったくないと思うし、後ろ髪を引かれてまで処分するのでは却ってストレスとなるので、極度の処分はマロニエ君は反対です。
しかし、どう考えても要らないものかどうか冷静な目で見てみると、まぎれもなく不必要で、使う見込みもないようなものがゴロゴロといくらでもあるのには我ながら閉口します。

昔は使わなくても、いろいろなものがガレージに所狭しと並んでいるだけで、マニアックな雰囲気に浸るという子供じみた満足もあったのですが、さすがにいい歳になると、そんなオバカな情緒も干からびてくるし、なによりスペースの有効利用という点が俄然大切に思えてきました。

いったん手を付けると仕分け作業にも「流れ」と「リズム」みたいなものが出てきて、このところ毎晩のようにガレージに入っては不要物の選別をし、さらに可燃ごみと燃えないごみを分別し、それぞれの袋へパズルよろしく詰め込むのが日課になり、これはこれで結構楽しくもありました。

他地域の自治体もほぼ同様だろうと思いますが、燃えないごみは福岡市では月に一度、市の指定の袋に入れておきさえすれば夜中に回収してくれます。
可燃ごみは2~3日に一度のペースなのでゆったり構えていられますが、燃えないごみは一度出し損じると次は一月先になるので、それもあってかなり積極的にこちらの選び出しには集中しました。

つくづく思ったことは、モノにはまあそれなりに思い出がないといえばウソになりますが、それよりも、なんでこんなものを後生大事に今日までとっておいたのか、自分の短慮と愚かしさのほうが身にしみました。
とくに強調しておきたいことは、前回と重複しますが、「これはきっとそのうち何かの役に経つだろう」などというのは、ほとんど幻想で、現実はまずそんな出番などほとんどないということ。

仮に、万が一にもそういう事があったとしても、そんなわずかなことのために長年にわたり大量の不要物を抱え込んでおくなんて、これこそバカバカしく不健全で、なにか必要なものがあればその都度、それだけをどうにかすればいいのだということがよくわかりました。
ガレージに関していうなら、数年前に較べると物の量は半分どころか、1/3か1/4ぐらいまで量を減らしたと思いますが、ではそれでなにか困るかというと、これがもう情けないほどまったくなにひとつ困らないし、むしろゴミゴミしいものが姿を消し、そのぶんスッキリきれいになって、新たな空間が出現するのは思っていた以上に爽快です。

最近では、郵便で届くDMひとつでも、こまめに捨てておこうという気分が定着しつつあり、つくづくこれは習慣の問題だと思います。いつまで続くかはわかりませんが、まあそのうち息切れしたにしても、ときどき家の中のダイエットをするのは決してムダではないという気がしています。
余計なものが姿を消してスッキリするのは、理屈ではなしに気持ちがいいもので、なんだかずいぶん得をしたようでもあるし、物の量は減っているのに逆に豊かな気分になれるのはおもしろいなあ…と感じ入っている次第です。