苦手な音

地震の話は気が滅入るのでピアノの話に戻ります。

過日、ウゴルスキの音の美しさについて書いたばかりでしたが、このCDは単独でも持っているけれど、たまたま近くにあったグラモフォンのブラームス全集の中からピアノソナタを取り出して聴いたものでした。

で、なんとはなしにその続きを聴いてみようと続く番号のCDを見ると、主題と変奏(弦楽六重奏の第二楽章のピアノ版)、シューマンの主題による変奏曲、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガで、演奏はダニエル・バレンボイムと記されています。
たしか前にもこの全集を聞いている時、バレンボイムのピアノは苦手なのでこのディスクはすっ飛ばした記憶がよみがえったのですが、今回はどんなものか聴いてみることにしました。

果たして、身構えていた以上にバレンボイムの「音」がまさにいきなりスピーカーから飛び出してきて、わっ!と思いましたが、とりあえず一度だけでも最後まで聴いてみることに。

音楽的にもまったく自分には合わないし、どこか力ずくというか、ただ弾けよがしに弾いているだけとしか思えないものでした。まるで昔むかしの音大生が、ただ力んで弾いているだけといった風情で、よくこれで天才ピアニストが務まったものだと思います。
さらにその音は、マロニエ君が苦手としてきたまぎれもない「あの音」で、いつも音がペシャっとつぶれたようで、しかもその中に硬い針金が入ったようなツンツンしており、どうしたらこんな音ばかり出るのか不思議なくらいでした。

資料を見ると1972年の録音のようですから、すでに40年以上前の演奏で、おそらく30歳ぐらいだったのでしょうが、基本的に演奏というものは人の声のようなもので生涯変わらないということがよくわかります。

彼が指揮を始めたことは、むろんそれに値する天分があったなど複合的な理由からだろうと思いますが、その中にはピアノ一本でやっていくだけの力というか、ピアニスト業だけで生涯聴衆を惹きつけるだけの魅力には乏しいことを本能的に感じていたからだろうと勝手ながら思います。

調律師の故・辻文明さんは「一流のピニストにはソノリティがあるものだ」というような意味のことを言われたと、何かで読んだ記憶がありますが、たしかに、世界的に第一級のピアニストともなると、「その人固有の音」というのが明瞭に存在し、楽器の個性とか優れた調整による差を飛び越えてしまうことが珍しくありません。

最も甚だしいのがホロヴィッツで、彼は晩年になって日本やヨーロッパにも出かけて演奏するようになりましたが、ロンドンだったか練習用のハンブルク・スタインウェイを弾いたり、ロシアではスクリャービンの生家にあった古いピアノで弾いている映像がありますが、その音はまぎれもない「ホロヴィッツの音」になっていることには、ただただ舌を巻くばかり。
彼のあの独特な音は、ホロヴィッツのために厳選されたニューヨーク・スタインウェイだからこそのものだと思い込んでいたマロニエ君は、それ以前に、どんなピアノでも彼がひとたびキーに触れれば「あの音」になることを知り、強い衝撃を受けたものでした。

また近年はすっかりスタインウェイばかりを弾くアルゲリッチも、もう少し若い頃は、日本公演でもヤマハを弾くことが幾度かありましたが、そこで聞こえてくる音は(実演でも)ヤマハもスタインウェイも関係ないほど「アルゲリッチの音」でした。
むかしVHDディスクというのがあって、ヨーロッパで収録された「アルゲリッチコンサート」では、ラヴェルの夜のガスパールをヤマハで弾いていますが、これもピアノメーカー云々が問題でないほど彼女にしか出せないあの音だったので、ピアノが完全に道具にまわっていることが歴然です。

その点でいうと、グールドの晩年の録音のいくつかはヤマハで録音されていることは周知の事実ですが、とりわけ名演として名高いゴルトベルクは、マロニエ君には、その素晴らしい演奏にもかかわらずヤマハの音が耳についてしまって、これがグールドの魅力の幾分かをスポイルしているように聴こえるのは、かえすがえすも残念な気がします。

しかしこれはあくまで珍しい例というべきで、普通はこのクラスのピアニストになると、専ら本人のソノリティが前に出るので楽器の違いはマロニエ君個人はあまり気になりません。
そういう意味で、バレンボイムの音は個人的にどうしても受け付けないし、あの音は彼の奏法と音楽が、ピアノというきわめてセンシティヴな楽器によって精緻に投映されたものだろうと思うと、それを可能にするピアノという楽器にも感心してしまいます。