練習を楽しむ才能

このブロクを読んでメールを下さった方で、同じく福岡市在住の方がいらっしゃいます。

とても個性的な方で、いわゆる一般的平均的な考えの持ち主ではありませんが、自分の感性と価値観を信じる生き方を静かに実践しておられる方とでも言えばいいでしょうか。いわゆるポピュリズム精神に重きを置かないためか、こういう人はとりわけ現代では異端児的で、ちょっと変わってる人というような位置づけになるようですが、なにかというと定見もなく、浅薄で迎合的な発想しかできない人間が大多数な中、まことにアッパレであることはいうまでもありません。

この方とはしばしばメールのやり取りもあり、電話でもずいぶん話して、いわば関係の「実績」を積んだことから、先日ついにその方のお宅に訪問することになり、思いがけなく食事までごちそうになってしまいました。
人間性もさることながら、むこうも男性だったのでお宅に行って二人で会うということもできたわけで、これがもし女性だったらそう気易くお尋ねするとこもできなかったかもしれません。

食事がすむと、ピアノのある部屋に案内されました。
いちおう個人情報という面にもあたるのかもしれませんし、今時のことなので、どんなピアノかというような具体的な記述は控えておきますが、とにかく普段ここでどのような練習をしているのかということをつぶさに説明していただき、ピアノの上達にかける情熱にはただただ圧倒される思いでした。

この方は大人になってからピアノを始められ、職業柄、別分野でひとつの事を極められている方なので、修行にはまず「基本」が大切であることをよくご存知らしく、基本なくしては何事もはじまらないし、しっかりした基本の上にこそ、とりどりの花も咲けば応用もきくという至極もっともなお考えらしいのはさすがです。

というわけで、もっか猛練習の毎日を送られているようですが、その練習というのが半端ではありませんでした。
曲は簡単なバッハの小品やブルグミュラーなどに過ぎませんが、単なる指練習であるハノンだけでも1時間2時間やってもまったく苦にならないのだそうで、後半は話をしながら指だけは休むことなくハノン練習で指はずっと上ったり下りたりしているという、これまでに見たこともない独特の光景でした。
さらに夜も更けると電気のキーボードに移行して、これで音を出さずに指練習を継続、車にも職場にも同じキーボードがある由で、僅かな時間を見つけてはハノンで指を動かすという、お仕事とその他生活の隙間にはすべてピアノの練習が入れ込まれているような毎日を過ごされているようです。
しかもそれが苦にならないどころか、「楽しい」のだそうですから恐れ入りました。

根っから練習嫌いのマロニエ君にしてみれば、自分とは真逆の人物が、目の前で真逆のことをやって見せながら嬉々としているのですから、これはもう、とてつもないものを見てしまった気分でした。

練習というのはしなくちゃいけないからするものだと思っていたマロニエ君でしたが、中には練習そのものを楽しむという方がおられて、これは仕事でも勉強でも同じでしょうが、嫌々やるのと楽しんでやるのとでは、もうそれだけで嫌々組はかないっこないわけです。

で、驚き、呆れ、圧倒されたマロニエ君でしたが、逆に心配なことも頭をよぎりました。
あまりの過剰練習からピアニストへの道を断念したシューマンのように、やり過ぎて手を壊しては元も子もないので、それだけは注意されたほうがいいのでは…と言いましたが、もちろん危ないと感じた時はすぐに止めて休ませているから心配には及ばないと、その点もぬかりはないようでした。
マロニエ君など、ろくに弾けもしないくせにショパンのエチュードなどやっていると、指というより手首から肘にかけての筋肉が無理をしてしまうのか、かなり痛くなって怖くなることがしばしばです。

そこは根性ナシのマロニエ君なので直ぐにやめてしまいますが、これを弾き続けることで克服しようなどと思って強引にやっていると、いつか手を壊してしまう可能性も低くはないでしょう。

いずれにしろ、およそ音楽とも言えないハノンのような無機質な練習をあれだけ楽しく積めるというのは、いやはや羨ましいというほかはありませんし、それで楽しめることそのものも「才能」だと思います。

考えてみれば、もともとピアニストなどは、ステージでの演奏など氷山の一角であって、いわば人生の時間の大半を練習につぎ込む職業でもあるわけで、やはりこれは練習のできるメンタリティを持っていることが必要で、それも重要な才能のひとつだと思います。