追加の演奏で

早朝放送されるBSプレミアムのクラシック倶楽部は、1回の放送でひとつのコンサートが取り上げられますが、ときどき変則的に「アラカルト」というのを放送します。
これは察するに、55分の番組内で紹介しきれなかったぶんの演奏を復活放送させる目的で、大抵は2人のアーティスト(というか2つのコンサート)を取り上げ、前回聞けなかった曲を追加的に楽しむことができます。

先日の放送では、キット・アームストロングのピアノリサイタルとユッセン兄弟のデュオリサイタルでした。

キット・アームストロングは、浜離宮朝日ホールで50年以上前の外装がウォールナット仕上げのスタインウェイDを使っての昨年の演奏でしたが、本編のときはあまり好印象ではなかったことを書いた記憶がありました。
たしかバッハのホ短調のパルティータとリストの作品をいくつか演奏したように思いますが、今回はわずか30分ほどの時間に、バッハのオルガン用のコラール前奏曲集から3曲、さらには自身の作曲である「B-A-C-Hの名による幻想曲」なるものが放送されました。

実は、今回聴いてみてこの人の印象が一変し、どれもが非常に素晴らしいもので、とくにポリフォニーの歌い分けの見事さには脱帽させられました。
しかも、多くのピアニストがそうであるように、意志的に知的に各声部を際立たせることに全神経を集中させて、そこにかなりエネルギーを割いている(というか、そうせざるを得ない)奏者が少なくないのに、キット・アームストロングはこの点があくまで自然体であるのは注目すべきでした。
必要に応じて上から下から、あるいは中ほどからいろいろな旋律が出てきては絡み合い、溶け合い、離れてい行くさまがいかにも自然で心地よく、本人の様子にもこれといって特段の苦労もないのか、ただ身についたことを普通にやっているかのようで、ときに嬉々とした感じさえ見てとれました。

このポリフォニーの歌い分けの自在さでは、ところどころでグレン・グールドを想起させるほどで、まだ10代だというのにこれは大変な才能だと思いました。また「B-A-C-Hの名による幻想曲」も、マックス・レーガーなどよりずっと世代感の進んだ斬新的な作品で、あんなものを本当に自作したとなると、ちょっと恐ろしげな才能でした。

ここに聴く半世紀も前のスタインウェイは、あきらかに現代の同型とは異なる音のするピアノでした。
ブリリアントな味付けがさほどされない頃のスタインウェイで、アラウやルービンシュタインなどの録音では、こういう重みのある朴訥な音がよく聞かれたように思います。洗練され華麗さを併せ持った後年のスタインウェイサウンドも素晴らしいけれど、多少渋みのある実直なハンブルクスタインウェイというのもなかなかいいものだと思いました。


後半はユッセン兄弟のリサイタルから、まず弟がモーツァルトのデュポールの主題による変奏曲、ついで兄がシューベルトのソナタの最終楽章、最後に連弾でシューベルトの行進曲というもの。
まずいきなり、弟の弾くモーツァルトの素晴らしさに心を奪われることに。

大ホールの演奏会で、モーツァルトをあれだけ聴衆の集中をそらすことなく、品位を保って終始充実した演奏で弾き切るというのはなかなかできることではありません。これがまずとても良かった。
ついで兄のシューベルトもすっきりしているのに立派で、ふたりとも、作品のありのままの姿を臆することなしに、自然体できっぱりと描き切っているのは特質に値すると思いました。

それに、二人ともよく曲をさらっていて、この点でも気分よく安心して聴いていられました。
ほどよく引き締まり、ほどよく無邪気さもあり、筋肉質になりすぎることも間延びすることもない自然な平衡感覚をもった演奏というのは、そうザラには転がっていません。

この二人はピレシュに師事していたようで、奏法/解釈のいずれにも多少その影響があることは隠せないけれど、師匠よりはテクニックもあるし、美に対するセンスも上回っているのか、むやみに押し付けがましい表現に陥らないところも高い評価の要素になりました。

どれを聴いても、演奏を通じて聞く者がまず作品に触れ、作曲者の顔を見せてくれて、しかもそれが「ピアノを超越して音楽しています」という上から目線でなく、あくまでピアノの率直な魅力にも溢れているところが、この兄弟が演奏家として特筆されるべき最も優れた点ではないかと思います。

キット・アームストロングから、切れ目なくユッセン兄弟に変わると、ピアノも一気に現代のスタインウェイになるので、その聴き比べもできましたが、現代のほうが音が基音が柔らかく倍音も豊富で、さらに音の伸びもあって耳慣れてもおり、やはりこれはこれでいいなあと感じたことも事実で、良いピアノはどれも素晴らしいという当たり前のことがよくわかった次第でした。

クラシック倶楽部の55分間で、こんなに終始充実感をもって集中して楽しめたことはめったにないことで、いい演奏というのはあっという間に時間が過ぎてしまいます。