勘働き

人間には「勘」という優秀なセンサーがありますが、表向きそれはあまり重視されません。
勘というだけでは、まるでただの思いつきのようで、明確な根拠のない主情による決めつけにすぎないというイメージなんでしょうか。

しかしながら、マロニエ君は自分の「勘」をとても重視しており、それは少々の根拠や理屈より一段高い次元を行くものだという位置づけなのです。それは自分の深いところにある何か確かなもの、別の言い方をすると心の奥底にある純粋なものとストレートに結びついている気がするからでしょうか。
この勘が、まるで微弱な電流のように、自分自身に何ともしれぬ信号を送ってくれることがときどきあるものですが、これを巷では「勘働き」というのかもしれません。

つい見落としがちな「勘働き」は、常に人の内面で機能しているのであって、とくに人間関係においは真価を発揮するものだといえるでしょう。どれほど立派で好感度あふれる人でも、どこかしっくりこない、違和感がある、などと感じるのはまさにこの「勘働き」というセンサーが何かをキャッチしているからだと思われます。

にもかかわらず、人間はやむを得ぬ事情や損得が絡むと、この勘がしらせてくれている信号をないがしろにしてしまうことがしばしばありますね。
目先の欲得やメリット(のようなもの)を優先し、自分に都合のいいように後付けの理屈を並べて正当化し、論理・心理両面の取り繕いをしますが、それはほとんど場合、意味のないごまかしに過ぎません。

マロニエ君も歳を重ねるにつれ、物事を熟慮するようになった…とはさすがに言いかねますが、それでも今ごろやっとわかったことも少しはあって、そんな経験からもこの「勘」にはできるだけ逆らわないよう心がけています。それは結果として、勘というものの正しさの確率が圧倒的に高く、そこに信頼の重きを置かざるを得ないからにほかなりません。
とくに信心する宗教もなく、風水だの何だのの類に頼っているわけでもない中、この勘働きは自分が間違った方向にできるだけ進まないための、ささやかな道標のひとつになっている気がします。

また自分のささやかな経験を振り返っても、この勘に逆らい、別の理由で押し切って前進したときは、まあ大抵はあとで失敗していることがわかります。

最近もこの「勘働き」の正しさを証明するような、あっと驚くことがあったのですが、これはさすがに具体的なことは書けません。ただ言えることは、10数年前からずっと違和感を感じていて、一度もそれが晴れることがなかった某氏(しかもその人の職場では才能を認められ、長らく信頼され、厚遇されていた人物)が、最近になってついにメッキが剥がれたのか、20年近くも務めた職場を、きわめて礼を失するやりかたであっけなく辞めていったという話で、そこの社長さんから最近聞かされて驚いたものでした。
マロニエ君としては、長い時間を経て、自分の感じていたことがようやく日の目を見たようで、おかしな言い方ですがある種の勝利感みたいなものを感じてしまいました。

このとき、あらためて自分の勘に従順でなくてはならないことを悟りました。

今どきは、表向きはきわめて温厚で好人物のようにふるまいながら、そのじつ野心的な計算高さと演技が見えてしまう人がとても増えたように思います。
まあ、それはそれでこんな時代を上手に生き抜くための術なのかもしれませんが、それを単純に信じれば、あとで手痛い思いをするのはこちらですから、油断は禁物。そして勘こそが頼りだとますます感じるわけです。

動物が災害などをいち早く察知するのも、やはりこの「勘働き」ではないかと思いますし、そういう機能が人間にも僅かに残っているのだとマロニエ君は思うのです。

三島由紀夫の『金閣寺』にも、こんな一文がありました。
「感覚はおよそ私をあざむいたことがない。」