修行のスタンス

過日、十四代柿右衛門さんのインタビューにあった基礎の大切さという点から端を発して、ピアノにおける技巧か音楽性かという部分に触れました。
しかしこれ、そもそも技巧と音楽を切り分けて訓練することじたいが出発点から間違っていると思わずにはいられません。

音楽性とテクニックの関係性は、あくまで一体のものでなくてはならないということです。
いかにテクニックが大切だといっても、音楽を後回しにして肉体的訓練ばかり積んで、後から「では音楽を身につけましょう」といってもなかなかそうなるものではありません。いったん身についた技術偏重の習慣は、大切な幼年期から思春期をそれで通してしまうと、あとからの方向転換は至難です。

音楽的様式と感性に裏打ちされた素晴らしい演奏を目標として、それを結実させるためのテクニックということであれば、多彩な音色やポリフォニックな弾き分け、音質の種類、必然的なアーティキュレーション、歌い込みの訓練など、ただ難易度の高い曲をこなすことが価値基準というような単純な訓練では済まなくなるのは明白です。

昔の(とりわけ)一流教師のもとでおこなわれた「スポ根的訓練」はさすがに衰退したようですが、それも音楽の本質に迫る指導するところまでは到達せず、真に曲の内面に切り込むことのないまま、楽譜上の音符の羅列として曲を扱う指導が大勢を占めていることに変わりありません。
だからどんなに上手いとされる人の演奏にも、どこか演技的な空虚さが漂います。

絵の場合、自分の描いたものは常に自分や他人が見ることができるため、たえず多くの批判の目にもさらされますが、ピアノは自分の演奏を後からじっくり確認するということは、録音でもしていないかぎりできません。
これは、音楽が絵のように止まることのできない時間芸術であるために、どうしても冷静かつ総合的な評価が手薄になっていく宿命といえるのかもしれません。

デッサンは様々なものを描いて練習を積むにも、常にそこには当人の美意識や感性が投映され、それと技巧が切れ目なく結びついていますが、ピアノで基礎技術を徹底するとなると、情緒面をシャットアウトしてしまう危険が大きく、むしろこれを同時並行させることのほうが困難といえるでしょう。

ハノンに代表される指運動の無味乾燥な教則本があることがその象徴ですが、絵の場合、毎日マルや直線といった技巧の訓練だけに費やす教本があるなどとは、少なくともマロニエ君は聞いたことがありません。
デッサンはいくらそれに明け暮れようとも、鉛筆をにぎる指の運動的な訓練という面がないことはないけれど、とうていピアノの比ではありません。出来栄えを常に見て、自分の目と感性とが連動した修練となります。

いっぽうピアノはスポーツ的な訓練および仕上がりに陥りがちな危険性に充ち満ちていて、日本の音楽教育というか、多くの先生方もそういうやり方で育ってきているので、どうしても指のスポーツが中心になるのでしょう。
珍しくない海外留学も、音楽の本場に行って修行を重ねるという表向きの意味のほかに、日本ではできない勉強を遅ればせながら現地でやってきます…という補填的ニュアンスにマロニエ君は感じてしまうのですが、残念なるかなあとから付け加えるのと、それ込みで育ってきた人とでは、埋めがたい溝があるような気がします。

ここで言いたいことは、ピアノの場合のテクニックというものは、冒頭に書いた通り、音楽と一体のものでなくてはならないということ。世界のトップレベルのピアニストの演奏を見ていると、各人の音楽性と技巧は深いところで一体化していて、その人の音楽的個性の方向に向かって技巧も発達していることが見て取れます。

その点でいうと、大半の日本人のピアノ演奏はまず万遍なく平均化された技巧があって、楽譜があって、それをマスターするついでに音楽的な表面処理をおこなっただけという印象があり、聴く者の心に侵入したり、情感に踏み込んでゆさぶられたり、思わずため息の溢れるような演奏になっていかないのは、至って当然という感じです。