同時に購入した反田恭平氏のCD2枚のうち、先に聴いた『リスト』はまったく良い印象がなかったことはすでに書いた通りですが、もうひとつの『Live!』では、おやっ…と思うほど違っていて、通常こういうことはまずないので珍しいことです。
曲目はシューベルトのソナタD661、チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ第1番、ショパン:英雄、ミャスコフスキー:ソナタ第2番、スクリャービン:ソナタ第3番、チャイコフスキー:カプリッチョ、モシュコフスキ:エチュードop.72-6、リスト=シューマン:献呈というもの。
データを見ると『リスト』と『Live!』の2枚は、ほぼ同時期(2015年1月)に録音されていますが、細かく見ると不思議な相違点が散見できました。
ケースの雰囲気も似ているので全然気づかなかったけれど、まずレーベルがまったく違っていてびっくりでした。
それに『リスト』はDENONによるセッション録音であることに対して、『Live!』はNYS CLASSICSというレーベルの文字通りライブ録音である点も異なります。
2枚に共通しているのはピアニスト、それに使われたピアノがホロヴィッツが弾いたという1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD75であること。
レーベルが違えば、当然プロデューサーも異なり、『Live!』のほうがCD75という歴史的なピアノの魅力をよほど適正に捉えているように思います。
ひとことで言うなら、こちらのほうがピアノの魅力を知る人(どうやらこのピアノのオーナー氏)が録音の指揮をとったという感じで、その違いは聴く側にとってかなり大きな影響があり、このあたりは工学の専門家と、楽器や音楽の専門家とでは目指すところがかなり違っているようにも思われ、マロニエ君は後者を支持するのはいうまでもありません。
『Live!』を聴くことで、この非凡な楽器の魅力もようやく伝わりました。
刃物のようにシャープで、優雅さと猥雑さが同居していて、どこか魔物の声のようでもあるけれど、その中に不思議な温かみのようなものもある、今どきのありふれたピアノとはまったくの別物というのがわかります。
それで気を良くして、もう一度『リスト』を聴いてみますが、こっちはやっぱりダメでした。
こちらは音がむやみに攻撃的でとても聴いていられません。よほどマイクが近いのか、耳はもちろん手や顔の皮膚までジンジンするようで、途中で本当に頭が痛くなってしまったほどです。たまらずにSTOPボタンを押すとその音の洪水から開放されてホッとするほど強烈です。
演奏も何度もプレイバックを聴いては録り直しをさせられたのか(どうかはしらないけれど)、演奏行為を通じて奏者と作品の間に起こる自然の発火作用がなく、仕組まれた無傷というか、慎重さとかミスのなさばかりが目立ってしまい、うまいんだけどシラケてしまいます。
熱演ではあるけれど、空気感としてちっともエキサイティングじゃないわけです。
やけに遅いテンポ、不必要かつ過剰な間の取り方、ハンマーが弦に打ち付けるときの直接的な衝撃音まで入っている感じで、まさにピアノの至近距離で聞かないほうがいい雑音まで聴かされているようで、反田氏自身が本当にそういうCD製作を望んだのかどうか、甚だ疑わしい演奏に聴こえました。
これに対して『Live!』では、音楽に流れがあり、そこにある緊張感あふれる空気を感じることができるし、ピアニストの一回の演奏にかける意気込みのようなものがあって、こちらのほうが反田氏の正味の姿だろうと思われますし、当然好感度も大いにアップしました。とりわけチャイコフスキー、ミャスコフスキー、スクリャービンで見せた腰のある演奏は、この人がとくにロシア系の重厚かつ技巧的な作品に向いていることがよくわかります。
その点で言うと、リストは作品がいくら技巧的ではあっても、それをただ技巧派が弾くとこの人の作品は趣味の悪さがワッと前にでるので、リストを聴いてもただ単に技術をお持ちなことを「わかりました」となるだけで、反田氏の評価が本当の意味でアップすることはないような気がします。
『リスト』と『Live!』の2枚は、『リスト』で伝えることのできなかった多くの要素、あるいは直接的なマイナス要因を『Live!』は取り戻すための一枚で、だからほとんど同じような時期に収録されたのでは偶然か意図的かと、つい勘ぐりたくなるようなそんなCDでした。
同じピアノとピアニストが、録音の目指す方向性によって出来上がるものは唖然とするほど違ったものになるということがまざまざとわかる2つのCDで、これほどはっきり体感できただけでもこのCDを買った意味があったと思いました。
できることなら、『リスト』に収録された同じ曲目を、違う録音で聴き直してみたいものです。
ただしラ・カンパネラと愛の夢はもうたくさんですが…。