ギャリック・オールソン

今年5月、浜離宮朝日ホールで行われたギャリック・オールソンのピアノリサイタルをクラシック倶楽部で視聴しました。
曲目はベートーヴェンのソナタop.110、ショパンのエチュード、ノクターン、バラード、アンコールにラフマニノフの前奏曲。

何と言ったらいいか、言葉を考えるけれど…なにも出てこない。
その理由を考えたら、言えることはただひとつ、要は「何も感じなかった」からだろうと思います。
ベートーヴェンは魅力はないもののある程度まともな演奏だったのに対して、彼が得意とするはずのショパンは奇妙な演奏でただもうぽかんとしてしまいました。

マロニエ君としてはまず第一にがっかりなのは、音の美しくないピアニストだということです。
そして大味。
ショボショボした冴えない音か、割れるフォルテかのどちらかで、聴いていてまず音そのものに不満がくすぶります。やはりピアノを聴く以上、演奏や楽曲のことも重要だけれど、根底のところでは美しいピアノの音を楽しみたいという欲求があることがいまさら自分でわかりました。

ポツポツと切れるフレーズ、横線やカーヴとしてうねらない音楽、大切なポイントとなる音は素通りするかと思うと、意味不明なところで変なアクセントをつけて強調してみたりと、この人の意図がまるで解せません。

とくにショパンは、危機感を煽られるほどスローなテンポであるし、この人なりの個性や味わいもまったく見いだせないもので、マロニエ君の耳にはショパンどころか、自己満足的な一人芝居でも見ているようでした。

唯一やや共感を覚えたのは、13番ハ短調のノクターンで、途中から転ずるアルペジョの連続からフィナーレにかけての劇的な部分を、それを強調せずむしろやわらかに弾いたことでしょうか。
この部分を大半のピアニストは静かで孤独感あふれる前半を序奏のように奏し、それに対して激烈な後半というふうに弾くことに決めているらしく、ほとんどノクターンという前提などかなぐり捨てて、まるでスケルツォのように激しくピアニスティックに弾くのが通例となっているのはなぜなのか。かねがねマロニエ君はこのやり方に違和感を覚えていたし、ショパンにしては直情的でさほど洗練されているとも思えないこの作品がなぜ人気曲であるかも理由がわかりませんでした。

その点、オールソンは延々と続く和音の連打をぐっと抑えこんで、悲壮感あふれる旋律を静かに強調していたことはせめてもの救いでした。

とはいうものの、全体としてはあまりにも表現のポイントが定まらない、少なくとも聴いている側にしてみれば、演奏を通じてどういうメッセージを受け取ればいいのか、まったく見えない演奏だったように思いました。

とくにショパンの演奏に必要な美音、デリカシー、密度、シックなセンスなどは、この古いキャデラックみたいなピアニストには求めるほうが無理なのかもしれません。
いまさら古い話を蒸し返してもしかたがないけれど、46年前、なぜこの人がショパンコンクールで優勝したのか今もって不思議でなりませんし、2位だった内田光子が優勝していれば、その後の両者の活躍からしてもどんなにか収まりがよかっただろうと思わずにはいられません。

番組冒頭で紹介されたオールソンのプロフィールでは、「古典から21世紀まで80曲に及ぶピアノ協奏曲を演奏。膨大なレパートリーを誇る演奏家として活躍を続ける」とありましたが、それは、すごいことかもしれないけれど聴く側にはあまり関係のないことで、8曲でもいいから、なにか特別な魅力ある演奏であってほしいもの。

さらに驚いたのは本人の言葉。
「ショパンへの思いは、10代のころ直感的に湧き上がってきました。」「私と相性がいいと恩師が言い、水を得た魚のような感覚…」「最初のレッスンであなたは生来のショパニストだ。なんと素晴らしい才能…」等。
どうやらこの人は、ショパンにかけては特別な自負をお持ちと思われますが、演奏からそれを納得することはついに出来ませんでした。

今年5月の来日では福岡公演もあったようで、知人から「ギャリック・オールソンが来ますね。行かないんですか?」と聞かれたこともありましたが、マロニエ君はよっぽどのことでもない限り地元のコンサートは行かないことに決めているので行きませんでしたが、もしもそのよっぽどのこと(付き合いやらなにやらの事情)で行くはめにならず、とりあえずよかったと胸をなでおろしました。

実際に時間を使って、チケット代を払って、着替えをして、ホールに出かけ、車を駐車場に停めて、座席に座ったあげくにこんな演奏をされた日には、以降2日間はその精神的余波があると思うので、やはりマロニエ君のようなタイプは行かないほうが安全なようです。