デリカシーの妙

『オリジナル・プレイエル2台で弾くショパンのピアノ協奏曲』というCDを買ったのはいつの事だったか…よく思い出せません。
マロニエ君にとっては、プレイエルという特別な名前に心惹かれたこと、さらにはこういうCDは目の前にある時に買っておかなくては、そのうち…なんて思っていたら二度と自分の手に触れることができなくなるということを苦い経験で知っていたので、とりあえず買うだけ買ったものの、プレイエルといってもフォルテピアノなのですぐには聴かずにほったらかしにしていました。

存在さえ忘れていたところ、つい先日、山積みになったCDの下の方からひょっこりこれが出てきたので聴いてみたら、すっかりこれにハマってしまいました。

ここで白状してしまうと、マロニエ君はフォルテピアノというのがあまり好きではありません。
クラシック倶楽部のような番組で放送されるぶんには聴くこともあるし、わけてもアンドレアス・シュタイアーのような名手の演奏は素晴らしいと思います。でも、じゃあCDを買うかといえば、ゼロではないがなかなか…というところです。

歴史的な意味や、ピアノの祖先としての価値はわかっていても、積極的に聴きたいというほどの欲求にはならないし、古楽器奏者たちの醸しだす、自分達こそ正しいことをやっているんだというようなあの宗教家みたいな雰囲気も苦手です。

プレイエルについては、モダンピアノの時代になってからのものは大好きで、コルトーのCDなどはむろん彼の演奏を聴くためではあるけれど、それはプレイエルの芳しい音色ともセットになっています。
このせいで、好きでもない日本人ピアニストのショパン全集を出る度に都合12枚も買ってしまったのも、ひとえにプレイエルの音を楽しみたかったからにほかなりません。
いっぽう、時代物のフォルテピアノはというと、古ぼけた骨董の音を聴いているようで、どうも自分の求めるものではないという印象から抜け出すことが難しい。ポーランドのショパン協会が関わるCDにも、ショパン存命の時代のエラールを使ったものがいくつもリリースされているけれど、フォルテピアノでおまけにエラールというのでは購入する気になれません。

さて、それで購入から数ヶ月を経て初めて聴いてみたこのプレイエル2台によるCD。
2台のピアノのうち、1台は1843年(ということはショパンが亡くなる6年前に製造された)の平型で、これがピアノのソロパートを弾いているのに対し、オーケストラパートは1838年製のピアニーノ(アップライト)が使われているというのも大変珍しいものです。

演奏はスー・パクとマチュー・デュピュイという二人のピアニスト。

第一印象はやけにパワーのない、地味で精気のない演奏という感じではあったものの、まずは耳慣れたモダンピアノとの違いからくる違和感を乗り越えなくてはと思い、まあ待てと聴き続けていると、予想より早くこれらの楽器の音や演奏に耳と気分が馴染んでいきました。

感心したのは、さすがはプレイエルというべきか、モダンのプレイエルの音に通じる独特な声があって、構造も何も違うにもかかわらず、両者には共通する個性がはっきり聴き取れることに驚かされました。
マロニエ君はモダンのプレイエルにこの19世紀の音を重ねているけれど、本来はむろん逆で、この音をモダンピアノになっても継承されているというのが順序です。

柔らかさ、明るさ、伸びのよさ、それに軽やかでありながら常に憂いの陰が射しているところも、まぎれもなくプレイエルのそれでした。
オーケストラパートを受け持つピアニーノというアップライトは、これがまた味わいのある音で、さらに柔らかく、ほわんと宙に浮くように響くあたりは、とうてい現代のピアノから聴こえてくる音色ではないのは驚くばかりでした。

こうして、ショパンの生きた時代のプレイエルの音を聴いていると、ありきたりな言い様ですが、まさにショパンがお弟子さんと二人で自分のコンチェルトを演奏している様子というのは、おそらくこんなものだったのではないかと空想しないではいられませんでした。
しかも、誰のためということでなしに、ただ自分のために弾いているような、あくまでも私的でプライヴェートな響きというか、もっと直截にいえば孤独感に満ちていて、ショパンの生の息遣いに触れられたような気になりました。

演奏は趣味もよく、終始センシティヴ、決して楽器の限界を超えるような弾き方ではない点も見事。

とりわけこの時代のピアノのもつ「軽さ」は魅力で、現代のピアノは素晴らしい反面、あまりにリッチな高級車のようで、作品に対してそのリッチさがそぐわない面があるのも認めないわけにはいかないようです。

こういう演奏を聞いていると、フォルテピアノをもうすこし聴いてみようかという気になりました。