決め手なし

しばらく前に、クラシック倶楽部で数回にわたってショパンコンクール・入賞者ガラというのをやっていましたので、視聴してみました。

ショパンコンクールの入賞者であることでコンサートをやっているわけだから、彼らががショパンを弾くのは当たり前としても、ふとピアニストにとって、弾くのが最も怖い作曲家は、昔ならモーツァルト、今はショパンではないかと思いました。

どの人を聴いてもしっとりツボにはまらず、深いところから「ショパンが鳴っている」と思えるものがないのは、いまさら彼らだけでもありません。
ショパンは最もメジャーなピアノレパートリーなので、誰も彼もいちおうは弾くけれど、本当にショパンに触れた気にさせてくれる演奏はというと嫌になるくらい少ないのが現実です。

人から「ショパンの☓☓のCDを買いたいんだけど、誰のがオススメ?」というようなことを聞かれることがときどきありますが、そこそこのものは山のようにあれども、パッとオススメできるものほとんどないというのもまたショパンです。

ずいぶん前に、ケンプのショパンについて書いた覚えがありますが、ああいった謙虚さとか無私な心というものがショパンには必要であるのに、時代はますますそれとは逆の方向に向いているような気がします。
だって、なんにつけても自分々々の時代ですから。

ショパン特有の複雑なのに澄みわたる響きの創出、強すぎず弱すぎずの美的均整のとれたアプローチ、適切かつ印象的なルバートとやり過ぎない洗練、都会的な情の処理、常に怠ることを許容しない詩情と理知のバランス、軽妙な話術のような駆け引きなど、ショパンを弾くにはショパン独特の理解と配慮が要求されると思います。

誤解しないでいただきたいのはケンプのショパンが最高だとは思っていないということ。
ただ、おしなべてドイツ物が得意な人はショパンはわりに苦手で、ブレンデルもわずかにショパンを録音していますが、むかし買ったけれど凄まじい違和感があって二度と聞きませんでしたし、シフも映像でちょっと聴いたことがあったけれど、むしろ彼のキャリアの足しにはならない演奏だった記憶があります。
コロリオフもショパンのCDを少し出しているようですが、聴いてみようという意欲は湧きません。

アルゲリッチもショパンとは相性が悪く、娘の撮った映画ではステージ直前、やけにイライラする彼女に向かって秘書のよう男性が「今日はショパンを引くからさ」というような言葉を投げかけます。

少なくとも、オールマイティなピアニストがプログラムの中に他の作曲家と同列に差し込むといった程度では、とてもではないけれどショパンがその演奏に降りてくるということはない…。

昔から「ショパン弾き」という言葉がありますが、それはちょっと誤解され、軽く扱われたきらいもありますが、一面においてはそれぐらい専門性をもって取り扱わなくてはいけないほど難しい作曲家だと思います。

とくに聴いていられないのは、若手から中堅に至るピアニストの中には技巧と暗譜にものをいわせて、表向きは普通に弾けますよ的な、要点のずれたペラペラな演奏を平然とやっているときです。

今の若い世代は日常生活でもルールだけは素直に守りますが、音楽でも同様のようで、譜面上の表面的ルールはよく守るけれど、なぜそうなったのかという根拠とかいきさつには興味がない。ルールを守ってただクリアなだけの処理に終始し、表情やイントネーションまで借り物のようで、そこそこの仕上がりになっているぶん、かえって全部がウソっぽく聞こえます。

ショパン・コンクールの入奏者たちの演奏を聴いていても、ひとつひとつが悪くはないけれど、なんらかの真実に触れるようなものがないのは、きっと時代のせいなのでしょうね。
それでも敢えて選ぶなら、やや薄味で整い過ぎではあるけれどリシャール=アムランでした。