アヴデーエワのCD

ユリアンナ・アヴデーエワの新譜を買いました。
といっても動機は甚だ不純なもので、天神に出た際、駐車場のサービス券ほしさにCD店を覗いたのですが、近頃は店頭在庫もこれといったものはいよいよ少なく、限られた時間内に、強いて選んだ一枚がこれだったというわけです。

昨年9月にドイツで録音されたもので、内容はショパンの幻想曲、続いてなぜかモーツァルトのソナタニ長調KV284、さらになぜかリストのダンテを読んで、さらにさらにヴェルディ=リスト:アイーダより神前の踊りと終幕の二重唱ときて…これで終わり。
まずこの曲目の意図するところがわからない。
いろいろな意味や考察があって並べられたものかもしれないけれど、マロニエ君には一向にそれが意味不明で、なんの脈絡もない4曲がただ並んでいるだけといった印象しか得られません。実際に何度聴いてみても、なんでショパンの幻想曲の後にモーツァルトのこのソナタがくるのか、さらにそこへリストのダンテソナタやアイーダの編曲が続くのか…流れとか収まり、選曲の意図がまったくわからず、いつまでも首をひねりたくなるものでした。

演奏は、技術的には大変立派なもので、しかもすべてが知的かつある種の暖かさみたいなものさえある仕上がで、並み居るピアニストの平均値から頭一つ抜け出たものだと、まずその点は思います。
では、聴いていてストレートに素晴らしいと感じるかというと、非常に端正だけれど本質的にピアニズム主導で聴かせる技巧人という域を出ることがなく、一流職人の仕事を見せられるようで、有り体に言えばわくわく感がまるでありません。

予め綿密なプランを立てた上での、意図した通りの演奏であるのかもしれないけれど、あまりにその演奏設計が前に出すぎていて、音楽自体に生命感がないし閉塞感みたいなものを覚えてしまいます。

解釈や構成、さらには実際の演奏の進め方まで緻密に練り込まれているため、ピアニズム主導といっても単純な腕自慢をするようなあけすけな技巧ではないところがアヴデーエワの奥義でしょう。あくまで知的フィルターがしっかりとまんべんなくかかっていて、だからえらく思慮深い演奏のようには聴こえるなどして、そういう捉え方をするファンも多いのかもしれません。

もとより演奏の精度はとても高いし、音も豊かで上質感もあるなど、演奏評価を決定づける要素がきれいにそろっているために、さしあたりすごさを感じて欠点らしいものは見当たりません。ところが、それがよけいにこの人の演奏にまとわりつく違和感を増幅させ、それは何かと躍起になって原因を探しまわることになるようです。

充実した余裕あるタッチのせいか、誇張して言うと、どの曲を聞いてもいつも立派なので却って変化に乏しく、さらにいうと一つの曲の中でも起承転結の実感がなく、どこを取っても同じような調子に聞こえてしまいます。むらなく立派すぎることで躍動感を失い、音楽が均一になっているというべきか。

演奏というものはどんなに周到に準備されたものであっても、最後はその瞬間に反応する「発火」の余地を残していなくては、いかに立派なものでも予定調和に終止するだけとなり、聴く側も真の喜びには到達できず、有り体にいうとわくわく感がありません。

その点でアヴデーエワの演奏は、「策士、策に溺れる」のたとえのごとく、「プランナー、プランに溺れ」ているのではないかという気がするほど、前もって音楽を作りすぎており、それがこの人の最大の欠点のように感じるのです。
どんなに高揚感を要するフォルテシモやストレッタにおいても、それはあくまで奏者のコントロール下に置かれ、絶えず抑制感がついてまわるのは、マロニエ君の好みから言うと却って欲求不満に陥り、ストレスを誘発してしまいます。

尤もこれはいうまでもなくマロニエ君の個人的な感想なのであって、ピアノ演奏においても、ひんやりと黙りこんだような最高級工芸品的な仕上がりを望む方には、アヴデーエワの演奏はお好みかもしれません。

マロニエ君なんぞはさしずめ作りたて揚げたてのアツアツ感がないと、音楽を音楽として堪能することができないのだろうと思います。
むろんこれは、音楽はライブに限るというあれとはまったく違うものです。
何十回録り直した録音でもいいから、このアツアツ感だけは必要だと思っているわけです。

それにしても、耳慣れたはずのモーツァルトのソナタKV284が、こんなにも長ったらしい、あくびの出るような曲であったとは初めて知りました。