ネルソン・ゲルナー

1969年生まれで、アルゼンチン出身のピアニスト、ネルソン・ゲルナー。
その名前は何度か耳にしていましたが、演奏は一度も聴いたことがありませんでした。

今どきなので、その気になればYouTubeなどであるていどその演奏に触れることはできるとは思うけれど、マロニエ君はYouTubeは見るものであって聴くものではないという自分勝手なイメージがあり、音楽でこれを利用することはこのところはありません。
以前はずいぶんのめり込んでこれで夜更かしを繰り返したものですが、タダで盗み見をするようで、だんだんに音楽に対する姿勢も雑で不真面目になるように感じて、自分が楽しくなくなり、しだいに遠ざかるようになりました。

じゃあCDやDVDやテレビならいいのかとなりますが、自分としてはいいことになっています。どのみち実演ではないわけで、そこに明確な理屈は通らないけれど、マロニエ君としてはここに自分なりの一線を引いているのです。
ちなみに、コンサートでは実演に接することになりますが、たった一度コンサートに行ったからといってそのピアニストのすべてが分かるのかというと、これはこれで怪しいもので、出来不出来もあるし、不明瞭な音響のホール(これが多い)では、かえって伝わらないものが多くて悪印象のまま終わることも少なくありません。

ではCDや映像だけであるていどの評価をしてしまうことにも問題はないのかといえば、もちろんないわけではないけれど、マロニエ君の経験では、実演で大きくその印象に修正を迫られたことはほとんどないし、録音のほうが演奏のディテールまでより細緻に迫ることができるのも事実です。

CDをさんざん聴きこんで実演に接すると、一発勝負の粗さや完成度の低さ、ホールの雑な音響やピアノのコンディションなどよるスポイルを感じることはあっても、本質的にはやはりCDの印象はそのままで、信頼性はかなり高いと考えます。
さらに一度や二度では聞き逃していたものを、繰り返し聴くことで網ですくいとるように丹念に拾っていくことができるのも録音ならではの強みです。

つい前置きが長くなりましたが、今回はネルソン・ゲルナーのCDを購入したという話でした。
イギリスのウィグモアホールのライブシリーズで、曲目は大半がショパン。
幻想ポロネーズ、2つのノクターンop.62、アンダンテスピアナートと華麗なる…、12のエチュードop.10他といったものですが、聴き始めてすぐに「ああ、この人は南米のピアニストだな」と思いました。

南米のピアニストはアルゲリッチ、フレイレ、プラッツなどがそうであるように、音のひとつひとつを楷書のようにはっきり弾くことはせず、必要に応じて音の粒にぼかしを入れたり、そこはかとないニュアンスへと置き換えたりしながら、作品のフォルムや性格を尊重します。
さらには陰影の表現にもこだわり、自然な呼吸感を大事にして弾く人が多く、たとえば二度連続するパッセージなどは必ず陰と陽に分けられ、さらにそれが絶妙の息遣いをもっているなど、このあたりが南米の伝統なのかと思います。

ゲルナーは決してスケールの大きな人ではないようですが、非常に感受性の豊かな人ならではの瞬間が随所にあり、なるほどと納得させられるところの多いピアニストでした。
ここぞというパンチはないけれど、この人なりによく練り込まれた、繊細に表現されたショパンを充分に堪能することができました。

いかにもラテン的だったのは、12のエチュードでも、隣り合う曲によっては、ほとんど間をあけずに次に入るところなどがあったりして、そんなところにもこのピアニストの感性の綾のようなものが垣間見えるようでした。
そのまったく逆が、木偶の坊のようなピアニストが24のプレリュードやシューマンの謝肉祭のような作品を通して弾く際に、常に曲と曲の間に判で押したような同じ「間」を取ることで、却って聴くほうのテンションが下がってしまうことがありますが、このゲルナーはそういうストレスとも無縁の快適なピアニストでもありました。

ただ、どちらかというと日本ではこういう人はあまり評価が得られず、多少ダサくても一本調子でも、生真面目に弾く人のほうが好まれるのかもしれません。
少なくとも日本人は粋なデフォルメや遊び心より、職人的な技巧やお堅い仕上げを喜ぶのかもしれません。

残念だったのは、名高いウィグモアホールのライブシリーズというには音質がいまいちで、その点ではコンサートの臨場感があまり伝わらず、どちらかというと記録録音のような趣でした。
近年は名もないマイナーレーベルのCDにも驚くばかりの高音質のものが珍しくないことを考えると、これはずいぶんと不利だなあという気がしました。