『音楽の贈り物』

ブックオフでの思わぬ掘り出し物に気をよくして、また別の店舗に行きました。
ピアニスト遠山慶子さんのエッセイとCDをひとまとめにした『音楽の贈り物』が目に止まり購入。

これまで書店で買うには至らなかったものが、こうして安く中古で手に入るというのはわりにおもしろいなあと思っているこの頃です。

遠山さんは1950年代にフランスに渡り、あの伝説のピアニストであり教師でもあったコルトーの弟子になられたという経緯をお持ちの数少ない日本人だと思われます。

エッセイはどれも短編で、あっさりした語り口がこの方の人柄やセンスを表しているようで、これまでの経験や感じてこられたことのエッセンスのようなもの。そこにはご自分が接した音楽家や文化人の名前が綺羅星のごとく登場しますが、そういう良き時代だったことを偲ばせるものでした。
文字を追うだけで、まるで1950年代から60年代のパリの空気を吸い込むようで、これを読めただけでもなんというか、薫り立つような体験をさせてもらったような気になり、とても満足でした。

また、本と一緒に1枚のCDが添えられており、遠山さんのソロがいろいろと音として楽しむことができました。本来マロニエ君はこういうスタイルはどこか下に見ていたようなところがあったけれど、それはやはり書く人、弾く人しだいというわけで、これはなかなかに楽しめるものでした。

曲目はモーツァルト:デュポール変奏曲、シューベルト:ソナタD566、ショパン:ノクターンNo,5/8/11/16、ドビュッシー:子供の領分というもの。
この中で、シューベルトのソナタだけは遠山さんのご自宅のベヒシュタインが使われ、それ以外はベーゼンドルファーのインペリアルが使われているというのも、ピアノ好きにとっては興味をそそるもの。

とりわけショパンでは、そのピアノの音の甘くて艶があって繊細なことにまず耳を奪われました。
近年ではこれぞと思うベーゼンドルファーにはなかなか縁がなく、インペリアルなどは図体ばかりでかいくせして、一向に満足な鳴り方をしないピアノを何台も見たり聴いたりしていたので、こういう美音にみちた楽器もあるのだということが思わずうれしくなり、うっとりできました。

またシューベルトに聴くベヒシュタインも、いわゆる普通のベヒシュタイン然とした音ではなく、こちらも色艶があってどこか可愛らしくさえあり、併せて哀愁のようなものまで感じさせるピアノでした。

最も驚いたのは、ショパンのノクターンに聴くベーゼンの音で、どことなくプレイエルを想起させる雰囲気すらあったのには、思わず声を上げたくなるほど驚きました。こういうショパンもアリという点で、まったく予想外なものでした。
耳を凝らせばたしかにベーゼンドルファーの特徴的なつんとした声が奥に聞こえてはくるけれど、全体的な音のニュアンスとそこに流れる空気はあきらかにフランス的で、こういう音を聴かされてしまうと、このピアノを選ばれた遠山さんの意図がわかる気がしました。

遠山さんはコルトー仕込みであるのはもちろん、ご自宅にもプレイエルのグランドをお持ちなので、コルトー&プレイエルが醸し出すあの独特なパリのショパンの世界は重々わかっておいでのことでしょうし、まったく違った楽器を使ってこのような音の世界を創出されるというやり方というか感性にもただただ脱帽。

ここに聴くベヒシュタインとベーゼンドルファーはいずれもまるでフランスピアノのような香りをもっており、これはとりもなおさず遠山さんの美意識が求めた結果の音作りであっただろうと、聴きながらマロニエ君は勝手に深く納得するのでした。
同時に彼女の好みをよく理解し、それをピアノに反映させた調律師の存在も見逃すことはできません。

しかもベーゼンドルファーは、曲によってウィーンと草津、埼玉と3ヶ所で録音さらたもののようですから、当然ピアノも技術者も違うだろうと考えたら、ますます驚かずにはいられませんでした。しいて云うなら草津で録音されたモーツァルトはわりに普通のベーゼンドルファーの感じでしたが、それ以外はかなりフランス風でした。

エッセイの中でプレイエルのことを「軽く透き通るような音」と表現されていましたが、まさにその通りだと思うし、このドイツ系の2台のピアノもそれ風になってしまっているところが唸らせられます。
フランス風な奏法ということもあってそういう音が出ているのだとすると、日本人がただプレイエルを弾いてもそれらしい音は出ないという暗示のようにも感じられます。

演奏はおだやかで良識的で、知性あふれるマダムという感じでした。