流麗なんだけど…

どこか腑に落ちない演奏ってあるものです。

菊池洋子のピアノで、モーツァルトのピアノ協奏曲第20 KV466/21番 KV467のCDを聴いてみて、ふとそんな気分になりました。オーケストラはオーケストラ・アンサンブル金沢、指揮はKV466が井上道義、KV467が沼尻竜典。

日本人として初めて「モーツァルト国際コンクールのピアノ部門で優勝」したことがこの人の特筆大書すべき経歴で、いきおい日本の新しいモーツァルト弾きというようなイメージが定着しつつあるようです。
ところで、そもそも「モーツァルト国際コンクール」というものがどんなものなのかよく知りませんし、このコンクールからこれといった演奏家が出てきたという記憶もありませんが、マロニエ君の不勉強のせいでしょう。

菊池洋子さんは、NHKのクラシック倶楽部などでも聴いた記憶があり、そのときもやはりモーツァルトのソナタやピアノ四重奏をやっていたように思いますが、どちらかというと明るく明快な演奏ということ以外、詳しいことまで覚えてはいません。

印象に残っているのは、ゴーギャンの描くタヒチにでもいそうな、長い黒髪を垂らした異国的な容姿と、沈潜せず、サッパリした語り口で、張りのあるモーツァルトを弾く人というようなイメージでした。

今回あらためてCDを聴いてみて感じたことは、耳に快適で、指も心地よく回っているし、音に華があること、さらにはよく準備された誠実な演奏で、なかなかよく弾けてるなぁというものでした。
ただ、欲を言うと、もうひとつこのピアニストなりの個性が明確にはなっておらず、あくまで譜面をさらって、万端整えて出てきましたという感じが残り、演奏を通じて奏者の語りを聴くという域にはまだ達していないように感じます。

センスはとてもいいものを持っていらっしゃるようだけれど、大きなうねりや陰影がなく、ひたすら全力投球で真っ直ぐに弾いておられるのだろうと思います。モーツァルトは一見まっすぐに見えて、実はかなり屈折した造りでもあるので、そのあたりを感じさせて欲しいのですが。

ブックレットによれば、ご本人はモーツァルトの即興性を大事にされ、その場で音楽が作られたかのように毎回臨みたいというような事を云われていますが、たしかにそれは感じられ、ただの印刷のような演奏でないことは大いに評価すべきところだと思いました。
さらには、いちいちが説明的ではない点も好感をもって聴くことが出来ました。
それはそうなんだけど、惜しいのは全体にせかせかして落ち着きのない感じを与えてしまっているあたりでしょう。

このふたつの協奏曲は、ケッヘル番号も連番になっている通り、ほとんど同じ時期に書かれた作品ですが、短調と長調という違いに留まらず、陰と陽、表と裏、精神的な明と暗という、対照的な関係にあって、もし役者なら同一人物に内包する極端な二面性の演じ分けに腐心するところではないかと思われます。
ところが菊池さんの演奏では、どちらを聴いても同じような印象しか残らず、とくに20番のほうに楽しげな明るさを感じてしまったのは少々慌ててしまったし、第2楽章も川面に浮かんだボートでくったくなくスイスイ遊覧していくようで、いささか面食らいました。

このCDには2曲(各3楽章)で計6つのトラックがあるわけですが、極端に云えばどれを聴いても同じようなに聞こえてしまうわけです。菊池さんにとってモーツァルト作品は長くお付き合いされ本場で研鑽を積まれた結果なのでしょうから、一定の見識のもとにこのような演奏に至っておられるのかもしれませんが、マロニエ君にはその深いところが汲み取れませんでした。

さらに言ってしまうと、マロニエ君は新しいCDはとりあえず何回も繰り返し聴くのが習慣ですが、このCDはそれがちょっとつらくなります。
華やかな同じ調子の演奏が延々と続くことに、聴く側のイマジネーションが入り込む隙がないようで、だんだん飽きてくるし、マロニエ君としては、もともとモーツァルトの精神の暗部に敏感であるような演奏を好むためかもしれません。

プロフィールを読むと、フォルテピアノの演奏もお得意の由で、もしかするとそちらの楽器にマッチする方なのかもしれません。私見ですが、モダンピアノは潜在的な表現力がフォルテピアノにくらべると格段に大きいので、より雄弁で多層的な表現の幅が要求されるのかもしれません。