弾く喜び

先日、某所でのリサイタルを終えられたばかりのあるピアニストの方が来宅されました。

しばらく雑談などが続きましたが、せっかくの機会であるし、少し前に我が家のピアノも過日保守点検メニューも済ませていることでもあり、ちょっと弾いていただきました。

今回の調整は音色の面でとても上手くいっていて、現在はかなりご機嫌な状態だと思うのですが、ピアノは弾く当人にとってはピアノとの距離が近すぎて、本当の音色を聴くことがきないのは残念な点です。
とくにスタインウェイのような遠鳴りを特徴とするピアノでは、至近距離ではむしろある種の雑音のほうが目立ったりということもあるくらいですが、ピアノから数メートル離れただけで、まったく別のピアノではないかと思うほど見事に収束した美しい音が聴こえることはこれまでにも経験済みです。

自分が弾いている限り、そのピアノの一番いい音を聴けないというのは皮肉なことで、少し離れた場所から、しかもピアニストの演奏を聴けるとなれば一石二鳥というわけです。
バッハからショパン、ムソルグスキーまでいろいろと弾いてもらいましたが、演奏はもちろんですが、ピアノが自分で言うのもなんですが予想以上に素晴らしい音でつい聴き入ってしまいました。
その音は、演奏者はもちろんですが、技術者の方にもあらためて感謝の念を抱かずにはいられないものでした。

つくづくと思うことは、ピアノも弦楽器のようにタッチによって音を作ってこそ、音の真価が出てくるというごく当たり前のこと。
「ピアノは猫がのっても音が出る」などといわれますが、むろんそれで良い音が出るはずもなく、素人でも本能的に音を作ろうとする人と、そういうことにはまったく無頓着に音符を追うだけの人がいます。

話し方でも訓練された発声で澄んだ聞き取りやすい声で話すのと、ベタッとした地声で話すのとでは雲泥の差があるように、いい音を鳴らすというのは、それ自体がすでに音楽的行為だと思います。

とくに名器と言われるピアノになればなるだけ、タッチによる音色やニュアンスの差がはっきりと音にあらわれ、日本製のピアノのほうがその点はまだいくらか寛容かもしれません。さらに電子ピアノになると、タッチによる汚い音というのがまったく存在しないので、その点ではやはりアコースティックピアノは奥が深いと思います。

弾いてくださったピアニストはとくにタッチや音にも配慮の行き届いた演奏をされるので、この点でもいうことなしで、ついステージで聴いているような錯覚を覚えました。

さて、マロニエ君はこのピアニストによる先日のリサイタルのアンコールと、東京でのライブCDの最後に収録された、ヴィルヘルム・ケンプ編曲によるバッハのコラールにすっかり魅せられてしまい、この10日ほどこれの練習に取り組んでいます。

僅か2ページほどの作品ですが、編曲ものというのはオリジナルとはまた違った難しさがあり、広く音の飛ぶ内声を左右どっちの指でとったらいいのかなど、わからないことも満載。
おまけにもともとの下手くそや、なかなか暗譜ができないなど、たったこれだけの曲をさらうのに、なんでこうも難渋しなくちゃいけないのかと思うと、さすがに情けなくなります。
もういいかげん暗譜してもよさそうなものが歳を重ねるほど難しく、さらに編曲作品特有の弾きにくさも追い打ちをかけて、ばかみたいに同じ所で間違えたりと、つくづく自分が嫌になります。

それでも今度ばかりは曲の魅力に抗しきれず、普通なら一日で放り出してしまうところを、めずらしく踏ん張っています。踏ん張ればそのぶんどうかなるのかといえば、そうとばかりも言えない気もするけれど、やめれば弾けないのははっきりしているので、もう少しがんばってみるつもりです。

いい演奏というだけなら、お気に入りのCDを鳴らせば済む話ですが、やはり苦労してでも自分の手からその音楽を紡ぎだすというのは格別で、自分の気持ちや指の動き一つでそのつど音楽に表情が宿ったり失敗したりと、これこそがささやかでも弾く喜びなのだと痛感します。