最近の番組から

最近テレビでみたもの。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演から、パーヴォの盟友とされるピアニストのラルス・フォークトのソリストによるモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。
何度も書いているように、マロニエ君はこのラルス・フォークトのピアノは好みではなく、残念ながら彼の魅力がなんなのかわからないし、パーヴォ・ヤルヴィほどの指揮者がなぜ彼をそこまで高く買ってしばしば登用するのかもわかりません。
とくにモーツァルトのピアノ協奏曲第27番といえば、KV595という番号からもわかるように、彼の最晩年の傑作の一つで、最後のピアノ協奏曲であって、これはそれ以前の作品を演奏するよりも、一層の繊細さと思慮深さが要求される作品でしょう。

モーツァルトは最も人間味にあふれる作曲家であるにもかかわらず、その演奏は、まるで天上から降り注いでくるような、美しさとに繊細さに満ちていなくてはならないと思うという点で、一音一音の変化に敏感でない、汗臭い、労働的な演奏は(とりわけ晩年の透明な世界には)ふさわしくありません。

ラルス・フォークトはどうみても繊細な感性や磨きこまれた音で聴かせるピアノではないし、どちらかというといかつい表情付けなどで押し切るタイプ。
果たしてどうなるのかと思っていたら、予想よりはいくらかおとなしく丁寧に弾いていたようで、覚悟していたほどではなかったのはひとまず胸をなでおろしました。

最近いやなのは、番組制作側の意図なのだとは思うけれど、演奏者にあれこれと大した意味もないようなことを喋らせることで、その点ではヤルヴィも毎回しゃべっているし、ラルス・フォークトもしゃべらされているものとも思いますが、どうもこの手は空虚な感じがあって、話の内容と演奏とがあまり結びつかないことが少なくないように感じます。

マロニエ君の場合はいつも録画で見ているので、それなら早送りすればいいのですが、いちおうどんなことをしゃべるのかとつい聞いてしまうふがいない自分にも嫌になります。それを聞いて、演奏を聴いて、その結果あれこれと不平不満をのべるのですから、我ながらご苦労なことですが。


辻井伸行が、オルフェウス室内管弦楽団とセントラルパークの野外コンサートに出演する2時間のドキュメント。

例によって、辻井さんはくったくのないテンションでコンサート以外でも、訪問地のあちこちを訪ね歩きますが、世界中のどこに行っても、そこにピアノがあるかぎり必ず弾くのがこの方のスタイルのようで、それは今回のニューヨークでも例外ではありませんでした。

まあ視聴者もそれを期待しているのですから基本的にはありがたいことだと捉えるべきですが、生まれて初めてのジャズバー体験として、本場のジャズを聴きに行っても、途中から参加という趣向で、やはりここでも演奏に加わりました。
マロニエ君には想像もつかない大変な度胸ですが、それがあってこそコンサートピアニストというものはやっていけるものかもしれません。ここでは珍しいことに(アメリカならではというべきか)ボールドウィンのグランドが使われていました。

それ以外にも、ニューヨーク在住の日本人タップダンサーのスタジオを訪ねました。
お名前は忘れましたが、この世界ではずいぶん有名な方だということでした。
勧められるとなんにでも興味を示す辻井さんは、すぐにタップダンスにも挑戦したあと、今度は傍らにあるピアノを弾き、それに合わせてこのダンサーが即興でタップをつけていくということで、ピアノとタップダンスのコラボとなりました。

ところが、曲は展覧会の絵からラ・カンパネラになり、ダンサーはピアノが鳴っている間中、見ている方が心配になるほど激しいタップを続けますが、途中から引っ込みがつかなくなっているようでもあり、曲が終わらないと止められないようでもあり、これは見ていて少し辛くなってしまいました。

弾き終わった辻井さんも、着ていた黒いシャツが汗でべっとりと濡れしてしまうほどで、これまさに二人によるスポーツで、要するに何だったのか…まるで意味の分からないまま終了。

番組ではオルフェウス室内管弦楽団とのリハーサル、セントラルパークでの本番、ともに地産品?でもあるニューヨーク・スタインウェイが使われましたが、2台とも新しめのピアノであるにもかかわらず、リハーサルのピアノはまるで鼻が詰まったような音で、いまだにこういうピアノがあるのかと思った反面、本番でのピアノは黒の艶出し仕上げの、より輪郭のある音のするピアノでした。

ニューヨーク・スタインウェイには巷間言われるような個体差やムラがやはりあるようで、調整の余地も大きいというのが納得できました。使われて、調整を繰り返しながら、時間をかけて整っていくピアノだということなのでしょう。