いまむかし

現代のようにあらゆるものが管理された、ある意味で安心、ある意味でおもしろみのない社会に生きていると、昔は楽しかったなあと懐かしく思うことがしばしばで、中でも今に比べると人間関係は濃く、感性重視、発言の自由度はずっと広かったように思えます。
標準的な日本語も、いまどきの卑屈なビジネス語や不正確な言葉遣いが蔓延することなく、尊敬語と謙譲語が明確なコントラストを作り出し、言葉だけでも日本人の細やかな情感と倫理が保たれていたように思います。

言語はそれ自体が生きた文化であり、その点で複雑な日本語は独自の美しさをもつ、いわば無形文化財のようなものだと思いますが、それを惜しげもなく捨てていこうとする方向性は、残念でなりません。
貴重な建造物を驚くべき丁寧さで修復保存したり、最近では歴史的な建築や地域を世界遺産に登録するのが流行りのようですが、だったら美しい日本語もある意味、修復し、保存し、継承されるべき対象に組み入れてほしいものです。

ほかにも、あれもこれもと昔を懐かしむことを思い出すのは簡単ですが、昔にくらべて今のほうが良くなったということを認識することは意外に難しく、せいぜい思い出すのはケータイとネットなどでしょうか。
人間は自分にとって快適になること便利になることには苦もなく順応して当たり前になるだけで、昔を思い出して、今はありがたいと思うことは大事なはずなのに、なかなかできませんね。

その代表がタバコです(吸われる方には申し訳ないけれど)。
昔は喫煙はいつでもどこでもほぼ自由で、飛行機に乗ってさえ離陸すると、機体はまだ上昇中だというのにいち早く禁煙のサインが消え、それっとばかりに前後左右からタバコの煙があがったものです。真横の人が立て続けに何本も吸い続けるというようなこともありましたが、今では考えられないことです。

タクシーに乗っても真っ先に鼻につくのは車内に染み込んだタバコ臭で、お客さんどころか、運転手もプカプカやりながら運転していました。おまけに運転もめちゃめちゃに荒っぽく、タクシーと無謀運転は同義語でした。フロントシートの背につかまりながらお客さんは身体を前後左右に揺すられながら乗っていたわけで、今どきあんな運転をしたらいっぺんで運転手はクビでしょうね。

飲食店などに入ってもマッチと灰皿は当たり前で、喫茶店など店内は霞がかかったように煙草の煙が充満していましたし、むろんいまのようにきれいではなく、壁がニコチンで薄茶色になったお店なんてざらでした。

それを思い出せば、今はタバコを吸わない身には天国です。

ただ、タバコだけではない数々の規制によって失ったものもあり、人々は今よりも明らかに情感が豊かで活力があったし、人間臭さがありました。
上記のようなタクシーの無謀運転などはむろん困りますが、世の中の人達は今よりもずっとエネルギッシュで、人ともよく交わっておしゃべりをしたし、親交も深く、ケンカもし、声も平均して大きかったのは間違いないでしょう。

今の人は、総じて注意深く、損得に聡く、計画的で、周到で、演技的、これらがほとんど体質化しているように思われます。
計画的なことがすべて悪いわけではないけれど、ときには、あまり先のことを考えず目の前のことに情熱を燃やし、冒険の気持ちをもつことことも必要ではないかと思いますが、そういう面白さは本当になくなりました。
破滅型の芸術家というようなタイプももういません。

自分の将来や行く末、仕事や健康など、あまりにも情報が多く先見えがするゆえに注意することが多すぎて、世の中から大胆さや心の底から愉快と思えるようなものが消えてしまいました。どっちを向いてもやっちゃいけないことだらけで、いわば自主規制ずくめの社会ですが、それで保たれている恩恵も多いのですから、つくづく物事はなにかとトレードの関係にあるということを感じます。

洗練された社会は、人々からある種のダイナミズムを奪うということは間違いないようですね。
誕生日を過ぎてまたひとつ歳を重ね、つい愚にもつかない事を考えてしまいました。