ふたつのマツーエフ

BSプレミアムシアターで、今年だったか、インドのムンバイで行なわれた「メータ、80才記念コンサート」みたいなものが放映されました。もう消去してしまったので、タイトルも曲目も正確でないこともありますが、こうもり序曲、ブラームスの二重協奏曲、そして最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノは、デニス・マツーエフ。
オーケストラはイスラエル・フィル。

チャイコフスキーは、どう表現したらいいか困ってしまうほどの「爆演」でした。
マツーエフは見た目からしてピアニストというより、何かの格闘家か、重量挙げなど力自慢の選手のようですが、この日のピアノはまったくその風貌にピッタリというか、まるでゴジラがピアノを弾いているような演奏でした。

良い悪いは別にして、ピアノって、あれほどの怪力で叩きのめすことができるものかと思ったし、あまりの暴力的な打鍵に耐えかねて、開始早々中音域の幾つかが、たちまち狂ってしまい、あからさまなうなり音を発していたほどです。
しかも曲が曲なので、叩きつけようと思えば叩きつける場所には事欠きません。

指から手の甲にかけてもじゃもじゃした赤い毛に覆われた猛獣のような手が、情け容赦なくスタインウェイの鍵盤を叩きまくり、ピアノはその度にぶるぶるとボディが揺れていました。

キレイ事を言うつもりは毛頭ないけれど、ピアノが好きで、美しい音楽を愛する者の端くれであるつもりのマロニエ君としては、とてもではないけれどずっと続けて見ることはできませんでした。
とにかく派手に見せるための、力まかせの演奏というものが生理的に受け付けられないし、あのロシア人の巨体から繰り出される暴力的な強打を見ていると、もはやピアノが虐待を受けているようにしか見えませんでした。

早送りに次ぐ早送りで、終楽章のフィナーレを見てみると、このころには頭を一振りするごとに、無数の汗がプロレスの試合みたいにバンバン飛び散って、それは格闘技のリングに近いものでした。
本心から、このままではピアノが壊れるのではないかとハラハラしました。

その数日後のこと、Eテレの「クラシック音楽館」のたまっている録画を見てみると、N響定期公演からヤルヴィの指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番というのがあり、そのソリストがなんとまたデニス・マツーエフとなっているのは我が目を疑いました。
うわー、これはたまらん!と思いましたが、日本でもあんな演奏をするのかと思い恐る恐る見てみると、メータとのチャイコフスキーと比較すると、一転してほとんど別人とでも言いたくなるような真面目な演奏で、同じピアニストが場所によってこんなに違うものかと、なによりまずそのことにびっくり仰天でした。

もちろんマツーエフが持っている資質はチラホラあるけれど、少なくともプロコフィエフの2番という屈指の難曲を立派に弾こうという真摯な姿勢の見えるしっかりした演奏だったのは、チャイコフスキーとは大違いでした。

おそらくメータの80才記念コンサートでは、お祭り的な要素が多かったことと、開催地もインドであったので、仕向地による違いだったと思われ、事前にそのような打ち合わせや要望も汲んでのことであったのだろうとは想像されますが、それにしても野獣がピアノを壊す気で弾いているかのようなあの光景は、やはりインパクトが強すぎました。

それでもチャイコフスキーでは割れんばかりの拍手で、アンコールではマツーエフによる即興みたいなものが弾かれましたが、これもハデハデで、最後はピアノがぐわんと動いてしまうほどの怪力で締めくくられ、インドの聴衆は大ウケの様子だったので、やはり国や地域によって西洋音楽に対して求めるものが違うのかもしれません。

もし日本であんな演奏をしたら、さすがに受け容れられないだろうと思うと、これでも日本は西洋音楽の歴史が「ある」ほうに入るのかもしれないなぁと思われ、なんだか妙な気分でした。