青柳いづみこ氏の新著、『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』を読みました。
想像以上に厳しいコンクールの世界、しかるにその覇者といえる人達のこれといってさほどの魅力もない演奏を聴くと、なんだか複雑な気分になるというか、要するにコンクールというのは、つまるところなにかの戦いの場であって、真の音楽家(いろんな意味があるけれど)を発見発掘する場ではないということがはっきりわかりました。
それでも、よほど桁違いの天才とかでない限り、コンクールという手段をもって世の中にデビューせざるを得ない若いピアニストたちが気の毒でもあるし、こういうことを書いたらいけないのかもしれないけれど、ピアノを弾くことを職業になんてするものじゃないということを、嫌でも悟らされる一冊でした。
青柳さんが直接そういうことを書いておられるわけではもちろんないけれど、読んでいてそういうことを最も強く感じたというわけです。
先進国では、昔に比べてピアニストを志す若者が激減していると言われて久しいですが、これは端的に言って、市場原理の前では当然のことなのだろうと思います。
現代は教育システムが進歩充実することで、技術的訓練は科学的かつ合理化が進み「弾ける」レベルの偏差値は上がっているようですが、同時に眩しいようなオーラを放つようなスター級のピアニストというのは存在しなくなりました。
平均が上がって、逆に超弩級の人がいなくなったということですね。
昔はコンクールで「ツーリスト」といわれたらしい、まるきりコンクールのレベルに達していない人が観光客気分(実際そうかどうかは別として)で出場するような「弾けていない」人がいたと聞きますが、そういう手合はほとんどなく(というか事前審査で紛れ込む余地が無いようになっている)、とりわけショパンやチャイコフスキーのような国際的な大舞台でのコンクールになると、その実力は大半が拮抗しているとありました。
解釈の問題、審査員の主観、コンクールの傾向など、本人にもわからないような僅かな差によって、次のラウンドに進めたり進めなかったり、コンクール毎に顔ぶれは入れ替わる由で、ほとんど理不尽に近い世界だとも感じます。
あるていど予測していたことではあったけれど、こうしてあちこちのコンクールに足を運び取材した人が、著書に記述されているのをみると、なんだかもう単純にウンザリしてしまいました。
何事においてもそうだけれども、時の経過とレヴェルアップによって、創設時の目的や精神が置き去りにされたというか、かけ離れた現状となってしまうのは、いたしかたのないことなのかもしれません。
ショパンコンクールに関しても、申し込みをしてコンクールを受けるには、まず書類とDVD審査、春にワルシャワ行われる予備予選、秋の本選は第一次予選、第二次予選、第三次予選、グランドファイナルと、これだけを見ても6つの厳しい選考をくぐり抜けていかなくてはならないようで、それがまた想像以上の難関であることが記述から伝わります。
しかも、DVD審査といっても、ただホームビデオかなにかで撮ったものでいいのかと思いきや、その映像・音質のクオリティによって当落が大きく左右されるというので、中にはそのためにホールを借り切り、専門家を呼んで収録してもらう人もいるとかで、その費用も自費で賄わなくてはならないとは、出だしからもうぐったり疲れてしまいます。
幼少期から練習に明け暮れ、音大を経て、世界的なコンクールに出場しようかとなるところまで到達するのさえ並大抵のことではないのに、そのための準備、練習、無数のレッスン、費用、そしてコンクールに出るためのDVD作りひとつにもこれだけの労力が必要とは、考えただけでも頭がクラクラしそうでした。
さらにコンテスタント(コンクールを受ける人)や教師は、常に新しい解釈や傾向を採り入れながら、受かるための訓練を続けていくだけでなく、海外へあちこち遠征し、審査員への顔つなぎや自分の演奏アピールなどまでやっているというのですから、「なにそれ?」というのが率直なところです。
じっさいのステージアーティストになる人達は、若い頃から、こういう世俗的な努力も一切怠ることなく、それでいて演奏の腕も磨き、レパートリーも増やし、コンクールに出て、それでも大半は努力に見合った結果は得られないほうが多いのだから、やるせないものだと思います。
「どんな世界でも五十歩百歩」という人もあるかもしれませんし、実際そうかもしれません。
しかし、マロニエ君の夢か妄想かもしれないけれど、楽器を弾く人はもう少しきちんと才能を見極められるチャンスがあって、その実力で正当に評価される世の中であって欲しいと、やはり思ってしまいます。