ラトヴィア生まれのピアニスト、マリア・レットベリによるスクリャービン・ピアノ独奏曲全集を聴いてみました。
スクリャービンのピアノ曲のCDはたくさんあるものの、その多くが曲集か、ソナタ、練習曲、前奏曲の全集といった感じで、独奏曲全集というのは知る限りでは数少なく、同一のピアニストで一気網羅的に聴いてみるべく購入してみました。
通常マロニエ君はCDを聴くときは、何度も繰り返し聞くのが自分のスタイルですが、今回はとりあえず一度さっと流す感じで8枚を聴いてみました。耳に馴染んだ曲が多くを占め、これといって新鮮味はない代わりに、意外な事も浮かび上がりました。
…なんて書くほど大げさなことでもないけれど、ひとことで言うとスクリャービンのピアノ曲をこれだけ立て続けに聴くのはマロニエ君にはいささか演奏が退屈で、ひとことで言うと「飽きてしまった」というのが偽らざるところ。
レットベリは若い女性ピアニストですが、技巧も十分でどれもよく仕上がった演奏ではあるけれど、現代的に綺麗にまとめられ、それ以上の印象が残りません。
CD店のユーザーレビューでは、3人揃って五つ星という最高評価ですが、マロニエ君はそこまでかなぁ…というのが正直なところ。
エチュードなどはリヒテルの名演が耳にこびりついて離れないし、ソナタではウゴルスキのデモーニッシュな表現も忘れがたいものがあります。そもそもスクリャービンのピアノ曲というのは、仄暗い官能の奔流みたいなものが中心にありますが、レットベリの演奏では作品の闇の部分とか精神的な比重が少なく感じられ、現代の明るい場所で、新しい楽譜を置いて、普通に弾いている感じが目に浮かんでしまいます。
休憩時間には、かばんの中のスマホを取り出して触っているような感じ。
逃げ場のないような暗さも、死の淵に立たされた絶望感ももの足りないし、スクリャービンらしい切実感みたいなものがどうにも迫ってこない。
最近の演奏では、ボリス・ベクテレフのものが最も好ましく思い出され、内的な襞にも迫るようなところがあって、やはりベテランの表現力はさすがだなあとも納得させられます。
ただ、こういう印象はこのCDのみならず、例えばショパンコンクールなどを聴いても感じるところで、ピアニストが弾きたいから、あるいは弾かずにはいられないから弾くのではなく、受験勉強のように準備した演奏特有のしらけ感があります。一見とても良く弾きこなされているし、よく弾けていると思える瞬間も多々あるけれど、そういう演奏を、現代の新しいパァーン鳴るピアノで弾いたというだけで、あとに引きずるような何かはありません。
読書で言う読後感のようなものが残らない。
演奏が終わったら、聞いている側も同時に終わって、もう次のことを考えている状態。
これは生の演奏でもCDでもまったく同じで、いわば行間から、演奏者の喜怒哀楽とか表現したい本音が聴こえてくるようなものでなくては、結局人の心をつかむことはできないと思います。
これはオーケストラでも同様です。
指揮者の合理的な計算が見えて、全体の構成、緻密な細部、見事なアンサンブル、意図され仕組まれた聴かせどころなど、ぜんぶ自前に準備されて粛々とそれを本番で実行しているだけで、これじゃあどんなに見事な演奏でも酔えないし、興奮はできません。
楽譜至上主義で、画一的な演奏形態が蔓延したものだから、演奏から精気が奪われ、音楽が鳴り響かず、魅力が一気に減退していったのかもしれないし、情報過多のせいかもしれません。
どんなに上手い人でも、気持ちの入っていない、精度は高いけれど大量生産的演奏。
演奏者がぎりぎりの領域に入り込んで、一か八かの勝負をかけたり、燃え尽きるまで炎に焼かれたりするような、そんな危なさがないと音楽は衰退するばかりでしょう。
話が脇道に逸れましたが、それほどマリア・レットベリの演奏が無味乾燥だと言うつもりではなかったのですが、でもまあどちらかというとそっち寄りの演奏だとは思いました。