コンサートに行くことは基本的に止めてもうどれくらい経ったでしょうか…。
こんなに音楽が好きなのに、以前はあんなに足繁く通っていたのに、それをやめ、しかもまた行きたいとはほとんど思わない現在の状況にはいくらか驚きつつ、それが自然なのかとも自分では思います。
理由はいろいろありますが、まず大きいのは、真剣に音楽に挑むというスタンスで、聴く人へ何かを伝えようとする魅力ある演奏家が激減したこと。
顔と名前は有名でも、その演奏は空虚で義務的で、さらに地方のステージでは力を抜いている様子などがしばしば見受けられ、否も応もなくテンションは下がるのは当然です。
決められたプログラムをただ弾いて、済めば次の公演地に移動することの繰り返しによってギャラを稼いでいるだけという裏側が見えてしまうと、期待感なんてとても抱けず、シラケて行く気になんかなりません。
もうひとつ、大きいのはホールの音響。
どんなに良い演奏でも、コンサート専用に音響設計されたという美名のもと、汚い残響ばかり渦巻くようなホールでは、とてもではないけれどまともに聴く気がしないし、演奏も真価はほぼ伝わりません。
デッドでは困るけれど、昔のような節度感あるクリアな音響のホールが懐かしい…。
しかも、長引くコンサート不況のせいか、最近はなにかというとこの手の豪華大ホールばかりで、ようするにわざわざ雑音を聞きに行っているようなものなので、それでもひと頃はかなり挑戦したつもりですが、ついに断念。
さらにピアノの場合は楽器の問題もないとはいえません。
どこに行っても、大抵はそこそこの若いスタインウェイがあり、ほぼ決まりきった音を聴くだけでワクワク感などなし。
もちろん個人的には、それでもその他の同意できない楽器の音を聴くよりはマシですが、なんだか規格品のように基本同じ音で、こういうことにもいいかげんあきあきしてくるのです。
今どきの新しいスタインウェイも結構ですが、ホールによってはもう少し古い、佳い時代のピアノがあったりと変化があればとも思うのですが、これがなかなかそうもいかないようです。
マロニエ君は大きく幅をとったにしても、ハンブルクスタインウェイの場合、1960年代から1990年代ぐらいまでのピアノが好みです。わけても最も好感を持つのが1980年代。
このころのピアノは深いものと現代性が上手く両立していて、パワーもあるし、ピアノそのものにオーラがありました。
いっぽう、新しいのは均一感などはあるものの、ただそれだけ。
奥行きがなく、少しずつ大量生産の音になってきている気配で、これによくある指だけサラサラ動くけど、パッションも創造性もない、冒険心などさらにないハウス栽培みたいなピアニストの演奏が加わると、マロニエ君にとってはもはやコンサートで生演奏を楽しむ要素がまったく無くなります。
べつに懐古趣味ではないけれど、ホールも、ピアノも、ピアニストも、20世紀までが個人的には頂点だったと思います。
ちなみに、何かの本で読んだ覚えがありますが、この世の中で、スタインウェイ社ほど過去のスタインウェイに対して冷淡なところはないのだそうで、たとえばニューヨークなどでも、自社に戻ってきた古いピアノは、素晴らしいものでもためらいもなく破壊してしまうことがあるのだとか。
たとえ巨匠達が愛した名器であっても処分するらしく、真偽の程はわかりませんが、聞くだけで身の毛もよだつような話です。
それほど、メーカーサイドは新品を1台でも多く売ることに価値を置いているというわけでしょうから、いかにスタインウェイといえども骨の髄まで貫いているのは商魂というわけですね。
また、その証拠にスタインウェイ社の誰もが、古いピアノの価値に対しては不自然なほど無関心かつ低評価で、常に新しいピアノのほうが優秀だと一様に言い張るのは、まるでどこぞの統制下にあるプロパガンダのようで、そういう社是のもとに楽器の評価まで徹底的にコントロールされているのかと思います。
親しい技術者から聞いたところでは、メーカーは新しいピアノのほうがパワーがあるとも主張するのだそうで、さすがにこれはかなり苦しい政治家の答弁のようにも思えます。
客席から聴くぶんには、新しいスタインウェイは見た目は立派でも、もどかしいほどパワーが無いと感じることがしばしばで、古いピアノのほうが太い音を朗々とホール中に満たしてくれる事実を考えると、いいものが次第に世の中からなくなっていくこのご時世が恨めしくさえ思えてしまいます。
ピアノがもし、運搬に何ら困らない持ち運び自由な楽器であったなら、多くのピアニストは佳い時代の好みの一台を自分の愛器として育てて、それを携えて演奏旅行をするのはほぼ間違いないでしょう。
そう考えると、ピアノはあの大きく重い図体ゆえに自らの運命も変えてしまったのかもしれません。