撤回の撤回

知り合いが1960年代のスタインウェイDを買われました。

数年前、このブログを読まれたことがきっかけでご連絡いただき、それからのお付き合いになった方です。関西にお住いで一度だけお会いしたことはあるけれど、普段はもっぱらメールか電話のやり取りに終始する間柄。
ピアノ本体の話とCDや世界で活躍する演奏家の話が遠慮なくできる相手というのは、そうざらにはなく、その点では貴重な方といえます。

音楽のプロではないけれど、かつては専門教育を受けられているし、なにより心から音楽がお好きで、ご自身でも趣味でピアノを弾くなどして楽しんでおられるようです。
ご自宅ではディアパソンの大きめのグランドをお使いで、私も数年間同じピアノを持っていたことから、よく情報交換などしていたものですが、最終的にはスタインウェイのDを買うことが目標だと以前から聞いていました。

さて、2年ぐらい前だったでしょうか、北関東のとあるピアノ店に該当するピアノがあることがわかり、どんなものか見に行かれたようでした。
といっても、このピアノ店は東京からさらに新幹線か在来線、あるいはバスを乗り継いで行かなくてはならないロケーションで、一往復するだけでも、それに要する時間と労力はおびただしいものがあるようでした。
なんなら飛行機に乗ってひょいと海外にでも行くほうがよほど簡単かもしれません。

で、見られた結果はまずまずで、かなり関心をもたれたようですが、そうはいってもおいそれと即決できるような価格やサイズでもないため、すぐに購入というわけにはいかなかったようでした。
その後は折を見て、ときにはお知り合いのピアニストなども同道されて見に行かれたようですが、やはり良いピアノのようで、事は徐々にではあるけれど、一歩ずつ購入への距離を縮めているようにお見受けしていました。

その後、どれぐらいのタイミングであったか忘れましたが、とうとう購入契約を結ぶところまで事は進み、まずはおめでとうございますという運びになりました。ところが、その後何があったのかはよくわかりませんが、この話は一旦撤回され、購入も何もかもがすべて白紙に戻ってしまうという非常に残念な経過を辿ります。

マロニエ君はそのピアノを見たことも弾いたこともないけれど、写真やこまかい話などから想像を膨らませて、まずその方が買われるであろう「縁」のようなものがあるピアノだと思っていたのですが、予想は見事に外れ、自分の勘働きの悪さを恥じることに。

ところがそれから一年以上経った頃だったでしょうか、マロニエ君の地元のぜんぜん別の人物がやはりこのピアノ店を訪れました。
それによると膨大な在庫の中には、何台かのスタインウェイが購入者の都合から納品待ちという状態にあるのだそうで、その中に上記のDも含まれていることが判明します。そして、白紙撤回から一年以上経っているにもかかわらず、どういうわけかキャンセルの扱いにはならず、契約が成立したまま、あくまで納品がストップしている状態であるという話に耳を疑いました。
マロニエ君も「あれはキャンセルされたはず」だと何度も念をしますが、どうもまちがいではないらしい。

そこで、ただちに上記の関西の知人に電話して、こういう現状になっているらしいことを伝えました。
もしもまだその気があるのであれば、気に入ったピアノというのはそういくつもあるわけではないし、そういう状態でキープされているのもお店の格別な計らいだろうとも受け取れたので、この際購入へと話を再始動されるか、あるいは本当にその気がないのであれば、それを今一度明確に伝えられたらどうでしょう?というような意味のことを言ったわけです。
お店としても、本当にキャンセルという確認が取れたら、「SELECTED」と書かれた札を取り去って、再び販売に供することができるはずで、高額商品でもあるし、いずれにしろ宙ぶらりんというのは一番良くないと思いました。

というわけで多少のおせっかいであったとも思いましたが、結果的に再びピアノ店へ行かれることになり、それからしばらくの後、ついに購入されることになりました。そして今月の中旬、ついにそのスタインウェイはその方の自宅へと無事に運び込まれたようです。
聞けば、一年半の時をかけ、このスタインウェイのためだけに都合7回!!!も関西から往復されたそうで、こういう買い方もあるのかと、ただもう感心してしまいました。

マロニエ君はといえば、それがピアノであれ車であれ、ほとんど1回か2回でババッと決めてしまいますし、その折もろくにチェックやあれこれ確かめるなどは自分なりにやっているつもりでも、実はほとんどできていません。買うときは半ばやけくそみたいなところがあるし、なかなかじっくり冷静にということができない性分で、ほとんどノリだけで決めてしまうのは毎度のこと。
いやはや、じっくり見極めるとはこういうことをいうのだと感嘆するばかりでした。
いずれにしろ、少々時間はかかりましたが収まるべきところに収まったのはおめでたいことでした。