10代のキーシン

過日、ピアノの知り合いがお遊びに来宅され、夕食を挟んで深夜まで、7時間近くピアノ談義に費やしました。

その方はマロニエ君など足下にも及ばないような高度なiPad使いということもあり、話題に名前が出るとほぼ同時ぐらいに指先はササッと画面を検索して、そのつどいま口にしたピアニストの音や映像が流れます。
まるで、影の部屋でスタッフがスタンバイしているテレビ番組のような運びの良さで、ただただ感心するばかり。

この日は、話や動画やCDに終始するあまり、ピアノは真横にあるのにまったく触らずに終わってしまうほどこちらに熱が入りました。

話はめぐるうち、「天才」が話題となりました。
世界の第一線で活躍するピアニストの大半はまずもって天才であるのだろうけれど、その中でもいかにも天才然とした存在のひとりがキーシンです。

彼がわずか12歳の子供だったとき、モスクワ音楽院の大ホールでキタエンコ指揮のモスクワ・フィルを従えて弾いたショパンの2つの協奏曲のライブは、当時ショック以外の何物でもありませんでした。
たしか、演奏から3年後くらいだったか、初めてこれをNHK-FMで耳にしたマロニエ君はその少年の演奏の深みに驚愕し、当時東京に住んでいたこともあり、神田の古書店街の中のビルにあった新世界レコード社という、ソビエトのメロディアレーベルを主に扱う店の会員にまでなって何度も足を運び、ついにキーシンのライブレコードを手に入れました。当時はまだLPでした。

それから初来日のコンサートにも行きました。ソロリサイタルではオールショパン・プログラム、いっぽう協奏曲では、スピヴァコフ指揮のモスクワ室内管弦楽団とモーツァルトの12番とショスタコーヴィチの1番を揺るぎなく弾いたし、その後の来日ではヴァイオリンのレーピンなどと入れ替わりで出演し、フレンニコフのピアノ協奏曲を弾いたこともありました。
とにかく、この当時はすっかりキーシンにのぼせ上がっていたのでした。

初めはLP一枚を手に入れるのにあんなに苦労したのに、今では当時の演奏や動画がYouTubeなどでタダでいくらでも聴けるようになり、この環境の変化は驚くべきことですね。

この夜は久しぶりにキーシンの10代のころの演奏映像に触れて、感動を新たにしました。
この知人も言っていましたが、キーシンについては「今のキーシン」を高く評価する人が多いようで、それももちろん深く頷けることではあるけれど、マロニエ君は10代のころのキーシンには何かもう、とてつもないものが組み合わさって奇跡的にバランスしていたものがあったと今でも思います。

現在のキーシンはたしかに現在ならではの素晴らしさがあるし、深まったもの、積み上げられたもの、倍増した体力などプラスされた要素はたくさんあるけれど、失ったものもあるとマロニエ君は思っているのです。
若いころの、この世のものとは思えない清らかな気品にあふれた美しい演奏はわりに見落とされがちですが、あれはあれで比較するもののない完成された、貴重な美の結晶でした。
現在のキーシンの凄さを感じる人は、どうしても「若い=青い」という図式を立てたがりますが、10代のキーシンの凄さは今聴いても身がふるえるようで、大人の心を根底から揺さぶるそれは、だから衝撃的でした。

とくにショパンの2番(協奏曲)に関しては、誰がなんと言おうと、マロニエ君はこの12歳のキーシンの演奏を凌ぐものはないと断言したいし、マロニエ君自身もその後キーシンによる同曲の実演にも接しましたが、あの時のような神がかり的なものではありませんでしたから、おそらく本人もあれを超える演奏はできないのかもしれません。

さて…。
ショパンの2番といえば、NHK音楽祭でユジャ・ワンが先月東京で弾いたという同曲を録画で見たのですが、個人的にはほとんどなんの価値も見いだせない演奏でした。
現在の若手の中で、ユジャ・ワンには一定の評価をしていたつもりでしたが、こういう演奏をされると興味も一気に減退します。
やはり彼女は技巧至難なものをスポーティにバリバリ弾いてこそのピアニストで、情緒や詩情を後から演技的に追加している感じはいかにも不自然。曲の流れを阻害している感じで、あきらかにピアニストと曲がミスマッチで見ていられませんでした。
尤もらしい変な間がとられたり、ピアノの入りや繋ぎの呼吸も、こういう曲では作為的で後手にまわってしまうのも、やはり自分に中にないものだからでしょうね。

あれだけの才能があるのになぜそんなことをするのかと思うしかなく、現代のピアニストはなんでもできるスーパーマンになりたがりますが、それは無理というもの。その人ならではのものがあるからこそ、人はチケットを買って聴きに来るのだと思いますし、だからこそ価値がある。

まるで場違いな猫がショパンに絡みついているみたいで、この曲に関しては衣装なども含めてブニアティシヴィリと大差ないものにしか見えませんでした。しかし最後にアンコールで弾いたシューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェンになると、ようやく本来の彼女の世界が蘇りました。
やはりこの人はこうでなくてはいけません。

すべてに云えることですが、自分のキャラに合わないことはするもんじゃありませんね。