思うところあって、今年は正月から家の片付けをやっています。
我が家はやたらモノが多くて、それでも人目につく表面だけはなんとか整えたふりをしているものの、実際はややうんざりしていました。
いつかは整理をしなくてはと思っていたけれど、なかなか決断するチャンスもないし、やるとなればとても一日や二日で済むような話ではない。
日々の生活に追われていると、そんな大ごとは当然のように後回しにして過ごしてきたのですが、生活上の変化もいくらかあって、ついに今年こそはこれに着手することにしたのです。
巷では断捨離というどこか宗教チックな言葉さえ聞かれますが、これは正確にどういう意味かは認識できていません。
物を捨てることで物との執着を断ち切って清々しく生きていきましょうというような意味だろうとイメージしていますが、もしかしたら間違っているかもしれず、ネットで調べれば正しい意味もわかるのかもしれないけれど、そこまでする気もないし、とりあえず自分の解釈のみでよしとします。
なぜなら、マロニエ君などはどっちにしろ断捨離などといえるような高い境地には到達できないことははじめからわかっているし、とりあえず要らないものは処分しようという単純行動に出たにすぎません。
今後読む予定がないと思われるあれこれの書籍類を、手始めにまず大量処分。
これをネットで申し込み、ダンボールに詰めておくだけで業者が取りに来てくれるのは助かりました。
整理といっても困るのは亡くなった身内の遺品で、とりわけ衣類などは生前身に着けていたものではあるし、それをただポイポイ処分(はっきりいうとゴミとして廃棄する)するのは、はじめは申し訳ないような気持ちがあって、なかなか手をつけられませんでした。
しかし、一面において衣類ほど始末に悪いものもないのが現実で、取っておいたからといって何の役に立つわけではなし、写真などと違うのだから、わざわざそれを取り出して個人を偲ぶようなものでもない。
さらには、いまどきのモノのあふれた日本では、よほど状態の良いものでも、衣類は人様に差し上げるようなご時世でもないので、要するにどう考えを巡らせてみても有効な使い途がないわけです。
そのいっぽうで貴重な部屋や空間を臆面もなく占領しているだけというのが衣類の紛れもない事実。
古着買取なども調べたけれど、それに要する労力に対してほとんど見返りがないことも判明し、けっきょくゴミとして処分することが唯一最良の道というところに決着しました。
中には良い品やまったく袖を通していないものなど、いざ処分するとなると忍びないものも数多くありますが、そこでいちいち立ち止まってみてもなにもならず、意を決して片っ端から処分しています。
やるからには、無用なものはできるだけ取り除こうと整理と処分を続けており、すでにかなりの量をゴミとして出しましたが、だんだんわかってきたことは、捨てるという行為は、始めの抵抗感の山を一つか二つ越えてしまうと、あとは急速に慣れていくし、いつしか妙な快感があるということでした。
無用物としてそれを部屋から(ひいては家の中から)取り出せば、そのあとには場所や空間が生まれ、必要な物だけで再構成されるささやかな世界には不思議な新鮮さがあることがわかりました。
ちょっと生き返る感じと言ったら大げさかもしれませんが、そんな清々しさがあるのは事実です。
物理的にも精神的にも身軽になるということの大切さを感じた時に、ああこれが断捨離の意味するところなのかとチラッと思ってしまいましたが、もちろん先にも書いたようにその本質がどこになるのかよくわかりませんし、わからなくても構いません。
もうしばらくは終わりそうにありませんが、ひとつわかったことは、使いもしない物を多く抱え込んでいるということは、自分にとって知らぬ間にかなりマイナスになっていて、それに気づきもしないということです。
ついでに雑念などもすっかり捨て去ってしまえればいいのですが、そこまではなかなか…。