以前はよく聴いていたタチアナ・ニコラーエワですが、手に入る音源はだいたい持っていたし、1993年に亡くなってからはほとんど新譜が途絶えたこともあり、次第にその演奏を耳にすることから遠ざかり気味となっていました。
そんなニコラーエワですが、先日久しぶりに彼女のCDに接しました。
晩年である1989年のギリシャでのライブが最近発売されたのを、たまたま店頭で見つけて「おお!」と思って買ってきたものです。
はじめて耳にする音源ですが、スピーカーから出てくる音はまぎれもなくニコラーエワの堅牢でありながらロマンティックなピアノで、非常に懐かしい気分になりました。落ち着いた中にも深い情感と呼吸が息づいていて、なにしろ演奏が生きています。
昔はごく普通に、濃密で魅力的な本物の演奏を当たり前のように聴いていたんだなぁとも思うと、なんと贅沢な時代だったのかと思わずにはいられません。
現代には、技術的に難曲を弾きこなすという意味での優秀なピアニストは覚えきれないほどたくさんいますが、その技術的なレヴェルの高さに比べて、聴き手に与える感銘は一様に薄く、その音を聴いただけで誰かを認識できるような特徴というか、独自の音や表現を持ったピアニストは絶滅危惧種に近いほど少ない。
やたら指だけはよく回るけど、大半がパサパサの乾いた演奏。
ニコラーエワで驚くべきは、ピアノ音楽の魅力をこれほどじっくりと、しかも決して押し付けがましくない方法で演奏に具現化できる人はそうはいないだろうと思える点です。
必要以上に解釈優先でもなければ楽譜至上主義でもなく、しかし全体としては音楽にきわめて誠実で、情感が豊かで、ロシアならではの厚みがあり、だけれども胃もたれするようなしつこさもない。
良いものはいくら濃厚であってものどごしがよく、意外にあっさりしているという典型のようです。
技巧、感興、解釈、作品などがこれほど高い次元で並び立っているピアニストはなかなか思いつきません。
常に泰然たるテンポで彈かれ、けっして速くはないけど、ジリジリするような遅さもない。
感情の裏付けが途切れることなく続き、呼吸や迫りも随所に息づき、しかしやり過ぎない知性と見識がある。
そしてピアノ演奏を小手先の細工物のように扱うのではなく、雄大なオーケストラのような広いスケール感をもって低音までたっぷりと鳴らす。
どの曲にも、はっきりとした脈動と肉感に満ちていて一瞬も音楽が空虚になることがなく生きている。
それに加えて、常に充実した美しいピアノの音と豊かな響き。
このCDの曲目はお得意のバッハからはじまりシューマンの交響的練習曲、ラヴェルの鏡から二曲を弾いたあとは、スクリャービン、ボロディン、ムソルグスキー、プロコフィエフとロシアものの小品が並びますが、個人的に圧巻だと思ったのは交響的練習曲。
しかもこれまでニコラーエワのシューマンというのはほとんど聴いたことがなく、交響的練習曲はこのアルバムの中心を占める作品であるばかりか、演奏も期待通りの魅力と説得力にあふれるものでした。
曲全体が悲しみの重い塊のようであるものの、だからといって陰鬱な音楽というのでもなく、多くのピアニストがピアニスティックに無機質に弾いてしまうか、あるいはせっかく注ぎ込んだ情感のピントがずれていて、本来の曲の表情が出ていないことがあまりに多いことに比べると、ニコラーエワのそれはまず自然な流れと運びがあり、まるでシューマンの長い独白を聴くようで、まったく退屈する暇がありません。
現代のピアニストの多くは技巧も素晴らしい上に、隅々まで考えぬかれていて聴いている瞬間はとてもよく弾けていると感心はしますが、後に何も残らないことがしばしば。
それに引き換えニコラーエワの体の芯に染みこむような演奏は、パソコン画面ばかり見ていた目が久しぶりに実物の絵画に触れたようで、心地よい充実感を取り戻すようでした。