真っ当な価値

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、昨年のアンスネスの来日公演の様子を視聴しました。
曲目は、本編とアラカルトを併せるとシューベルトの3つのピアノ曲、シベリウスの小品、ショパンのノクターンとバラード第4番、さらにシベリウスのソナチネ、ドビュッシーの版画というもので結構な時間と量になりました。

アンスネスのCDは何枚か持っているけど、それらは悪くもないけれど、特段の感性のほとばしりもなければ才気に走ったところも毒の香りもない、要するにこの人でなければならない特別な何かがあまり見いだせない、どちらかというと凡庸なピアニストという印象を持っていました。
今回、音だけ聴いていてはわからないことが、映像を見ることでわかったような気がする部分もありました。

それを適確な言葉で言い表す能力はマロニエ君にはないけれど、喩えていうならカチッと仕立てられた上等なスーツみたいな演奏だと思いました。
常識の中に息づく美しさや自然の心地よさ、音楽的礼儀正しさとでもいえばいいのか、一見目立たないけれど、非常に大事なものが確乎として詰まっているピアニストだと思いました。

2月の放送でN響とシューマンの協奏曲を聴いた時と同様、ソロリサイタルでもやはりピアノの大屋根はつっかえ棒になにかを継ぎ足してまで盛大に開けられていて、こうすることに音響上のなにかこだわりがあるものと思われます。
ただし、視覚的にはいかにもへんで、これによってスタインウェイのあの美しいフォルムは崩れ去り、少なくとも見た目はかなり不格好なピアノとなっています。

ただしその効果なのかどうかはわからないけれど、通常よりも明るく太い音のように感じられ、普通のスタインウェイよりも、どこか生々しいというか直接的な感じがしたのは気のせいではないような気がします。
もちろんピアノそのものやピアニストによって音はいかようにも変わるものだから、その要因がなんであるのかはしかとは突き止めきれませんが、結果的にこれはこれでひとつの在り方だというふうにマロニエ君は肯定的に捉えたいと思う音でした。

アンスネスのピアノは、どこにも作為の痕がなく、ほどよく重厚で、誠実にかっちり楽曲を再現することに徹しているところはあっぱれなほどで、解釈もテンポもアーティキュレーションも、呆れるほどにノーマル。
それでいて、今どきのカサカサした空虚な演奏ではなく、聴き応えのある実感があるし適度な潤いも必要な迫力もちゃんとある。
そしてなにより男性的安定感にあふれており、安心してゆったりと身を預けることができる演奏でした。

アンスネスのピアノで今回はじめて意識的に感じられたことは、楽譜に書かれた音がすべてきっちり聴こえてくることで、シベリウスをはじめ、シューベルトもショパンもドビュッシーも、それでいささかも不都合なく自然に耳に届いてくる、一見とても当たり前のようで、実はこれまで聴いた覚えのないような不思議な快適さだったように思います。

なかでもドビュッシーは、多くのピアニストが絵の具をにじませるような淡い演奏に傾倒しがちなところを、アンスネスはいささかもそんなことせず、あくまでも一貫性のある自分のスタンスを守りつつ、それでいてなんの違和感もなく落ち着きをもって安らかに楷書で聴かせてくれる点で、オーソドックスもここまで徹すれば、これがひとつの個性に違いないと感心してしまいました。

これは演奏を細分化したときの、音のひとつひとつに明瞭な核があって堅牢ですべてが揃っており、そこからくる構築感が自然と全体を支えているように思います。

番組の「アラカルト」では、たいていふたつの異なる演奏会が組み合わされ、このときの後半はアレクセイ・ボロディンのピアノリサイタルでした。
プロコフィエフのロメオとジュリエットから10の小品を弾きましたが、堅固な中にしなやかさが息づくアンスネスのドビュッシーの見事さのあと、そのまま連続してボロディンを聴くことになりましたが、技巧派で鳴らしたロシアのピアニストにしては、その「核」がなく、強弱やアーティキュレーションにおいて、音にならないようなところ、あるいは表面的な音質が目立ちました。
体格はずいぶんと立派ですが、出てくる音は意外なほど軽くて気軽なものに聴こえました。

ちょっと分厚い本をもった時、心地よい重みがズシッと指先に伝わってくる心地よさみたいなものがありますが、アンスネスのピアノにはそういう真っ当な良さ(しかも現代ではどんどん失われているもの)があるように思いました。

アンスネスには高速のスピード感とか、指の分離の良さからくる技巧の鮮やかさといったものはありませんが、派手な技巧よりも大事なものがあるという当たり前のことを、静かに問い直し教えてくれたようです。