ダン・タイ・ソン

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。