ヒューイット

クラシック倶楽部で、アンジェラ・ヒューイットの来日公演の様子が放送されました。
今年の5月に紀尾井ホールで行われたリサイタルから、バッハのインヴェンションとシンフォニア(全30曲)というもので、これらをまとめてステージの演奏として聴くのはなかなかないことなので、おもしろそうだと思いながらテレビの前に座りました。

実は、マロニエ君はアンジェラ・ヒューイットの演奏はCDで少し触れてはいた(ベートーヴェンのソナタやバッハのトッカータ集など)ものの、その限りでは深さを感じず一本調子で、あまり興味をそそられることはないまま、それ以上CDを買うこともありませんでした。

見た感じも、芸術家というよりカナダの平凡な主婦という感じで、写真はいつも同じ単調な笑顔だし、少なくとも鋭い感性の持ち主であるとか、デリケートな詩的世界の住人のようには思えませんでした。
手許にあるCDも、あまり深く考えずおおらかに弾いていくだけといった感じですが、これだけ評価が高いからにはおそらくこの人なりの値打ちがあるのでしょう。それがマロニエ君には今ひとつ伝わらず、ただ教科書的に正しく弾いているだけにしか聴こえません。

番組冒頭のナレーションでは「オルガニストの父が弾くバッハを聴いて育つ。1985年トロント国際バッハピアノコンクール優勝。バッハの演奏と解釈では世界的に高く評価され『当代一のバッハ弾き』と称されている。」と、バッハに関して最上級の言葉が出たのにはまずびっくりでした。

過去ではあるものの、同じカナダ人でバッハといえば空前絶後の存在であるグレン・グールドという神がかり的バッハ弾きもいたわけだし、当代のバッハ弾きというならアンドラーシュ・シフという最高級のスペシャリストがいるし、他にもバッハでかなりの演奏をするピアニストは何人もいるわけで、そんな言葉を聴いたこの段階で大いに首をひねりました。

さらに「2016年から4年かけてバッハの鍵盤作品全曲を演奏する『バッハ・オデッセイ』に取り組んでいる。」そうで、この日本での演奏会もその一環の由。

本人の発言としては、
「バッハが我々の心を打つのは喜びを踊りのリズムで表現しているから」
「バッハ自身の喜びと踊りが相乗して、我々を心地よくしてくれる」
「旋律や主題がどのように美しく流れるのかを聴くのも魅力のひとつ」
「現代のピアノの利点は2声3声のインベンションで顕著に現れる」
「音色の違いで複数の声部を聴き分け、さらに音楽の構造を理解できる」
などとおっしゃっていましたが、実際の演奏から、これらの発言の意味を音で確認することはマロニエ君にはできなかったと言わざるを得ませんでした。

音楽の場合、事前にどんな言葉を述べても、それを客観的に演奏から照合し保証する義務がないから、発言と演奏の食い違いはしばしば遭遇することで、今回もまたそれかと思いました。

思うに踊りのリズムというのは、ただノンレガートで拍を刻むだけではなく、各声部の絡みとかフレーズに込められた歌や息づかいが相まって、自然に心や身体が揺れてくるものだと思うのですが、ヒューイットのリズムには肝心の呼吸感が感じられず、踊りというよりむしろメトロノーム的に聴こえました。

声部の弾き分けもむろん聴き取りたいけれど、タッチもクリアさがないのか、むしろ埋没しがちで音符がはっきりせず、この点ひとつでも彼女はシフのバッハ──いくつもの花が咲き競うように各声部が歌い出す演奏──を聴いたことがあるのだろうか…と思いました。
とりわけインヴェンションともなると自分でも弾く曲なのでピアノ経験者はよく知っているはずですが、まるでよそ事みたいで、不思議なくらい曲が耳に入ってきません。

ご自分では現代のピアノの利点云々と言われるけれど、ヒューイットの平坦な弾き方は現代のピアノの機能を十全に使っているとは言いがたく、いつも乾いた音が空虚に鳴るだけ。
ましてや各声部が交わったり離れたり、右に行ったり左に寄ったり内声が分け入ったりする、バッハを聴くとき特有の集中とワクワク感がありません。

マロニエ君の耳には、教科書的で生命感のない昔の退屈なバッハを思い出させるばかりで、冒頭の「解釈も世界的に高く評価され」とはなんだろうという感じに聴こえてしまうのは非常に困りました。
もちろん聴くべき人がお聴きになったら、その高尚な価値をきちんとキャッチできるのかもしれませんが。

バッハはある程度弾ける人が弾いたら、作品の力でとりあえず形になる音楽だと思っていましたが、必ずしもそうでないことがよくわかりました。