二人のブラームス

休日には、ときどきテレビ番組の録画の整理をすることがあります。
これをしないと録画はたまる一方で、つまり見る量が録画する量に追いつかないということ。

BSプレミアムのクラシック倶楽部も例外ではなく、毎日の録画の中から実際に見るのはほんの一握りに過ぎません。
タイトルだけ見て消去するものもあるけれど、いつか見てみようとそのままにして何ヶ月も経ってしまうこともしばしばで、そんな中からある日本人著名ヴァイオリニストの演奏会の様子を見てみることに。

曲は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1番と第3番。
インタビューの中でも自分にとってブラームスは最も身近に感じる存在などと語っていて、彼女にとって特別な作曲家であるらしく、実際の演奏もよく準備され弾き込まれた感じがあり、とくに味わいはないけれども普通に聴ける演奏でした。
ピアノはえらく体格のいい外国人男性で、これらの曲のピアノパートの重要性を意識した上で選ばれたピアニストという感じがあり、両者ともに、いかにもドイツ音楽っぽくガチッとまとめられた印象。

身じろぎもせずにじっと聴き入っていたわけではなく、その間お茶を呑んだり、新聞を見たり、雑用をしながらではありましたが、自分なりにちゃんとステレオから音を出して、いちおう最後まで聴いてから「消去」しました。
さて、次はと思って見たのは、同じ女性ヴァイオリニストで、こちらはジャニーヌ・ヤンセンの来日公演でした。

冒頭鳴り出したのは、なんとさっきの2曲の間を埋めるように、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番で、その偶然に驚きましたが、それ以上に驚いたのは、あまりの演奏スタンスの違いというべきか、湧き出てくる音楽のやわらかさであり自然さでした。
専門家などに言わせればどういう見解になるのかはわからないけれど、ブラームスが本来目指したのはこういう音楽だったのだろうと、マロニエ君は勝手に、しかし直感的に思いました。
少なくともさっきのような、動かない銅像みたいな演奏ではないはず。

変に頑なな気負いがなく、呼吸とともに音楽が流れ、とにかく自然でしなやか。
それでいて自己表現もちゃんと込められている。
ピアノのイタマール・ゴランも、マロニエ君はどちらかというと好きなほうのピアニストではなく、とくに合わせものでは相手を煽るようなところがあったり、ひとりで暴走するようなところがあるけれど、さっきのガチガチの演奏が耳に残っているので、比較にならないほど好ましく感じました。

さっきの日本人は、ひとことで言うと冒険も何もなく、ただ正しく振る舞おうとしているだけの演奏で、これは日本人とドイツ人の演奏者によくあるタイプという気がします。
音大の先生の指導のような演奏で、それでもブラームスをリスペクトしてはいるというのは本当だろうけれど、音楽に必要な表現や語りがなく、いかめしい骨格となにかの思い込みに囚われていてる感じ。
その結果、聴く者に音楽の楽しさも喜びも与えず、ただ勉強したブラームスの知識を頭に詰め込み、信頼できる譜面の通りにしっかり弾いている自分は正しいと思い込んでいるだけで、演奏上のいろいろな約束事を守ることに一所懸命な感じばかりが伝わります。

それがヤンセンの演奏に切り替わったとたん、堅苦しい教室から外へ出て、自然の風に吹かれて自由を得たような開放感がありました。

最近の日本の若手のヴァイオリニストには、そういう点ではずっとしなやかに音楽に向き合う人も出てきているようだけれど、少し前の世代までの日本人の演奏家には、どんなに大成してもその演奏にはお稽古の延長線上のような、独特の「重さ」と「楽しくなさ」がついてまわる気がします。
せっかく美しい作品を奏でているのに、いかつい表情ばかりが前に出て、聴いていて美しい音楽に自然に身を委ねるということが、できないというか知らないんだろうという気がします。

テクニックも充分で、かなりいいところまで行っているのだけれど、悲しいかなネイティブの発音には敵わないみたいな、努力と汗にまみれた日本人臭がするのは、なんだか切ない気分になりました。
テクニック上では「脱力」ということがよく言われますが、それよりももっと大事なのは、音楽に精通した上で気持ちが脱力することではないかと思います。

マロニエ君はブラームスのヴァイオリン・ソナタは第1番がとくに好きだったけれど、演奏のせいか、今は第2番が一番好きな気がしてきました。