バッハ-CDと演奏会

最近買ったCDから。
ディーナ・ウゴルスカヤによる、バッハの平均律全曲。

その名から想像されるとおり、ウゴルスカヤはあのアナトゥール・ウゴルスキのお嬢さんで、ジャケットの美しい顔立ちの中にも、偉大な父であるウゴルスキに通じる目鼻立ちをしており、親子二代でこれだけのピアニストになるのは大したものだなあとまずは感心させられます。

演奏は大変良く練りこまれた真摯さと深い見識を感じさせるもので、父親のような計り知れない器の大きさはないけれど、心の深いところで音楽する人であるのは一聴しただけでもすぐに伝わってきます。
技巧も立派で一切の危なげもく、ぶれのない終始一貫した黒光りがするような落ち着いたバッハ。

お年はいくつかわからないけれど、ジャケットの写真をみても、まだ充分に若く、それにしてはずいぶん大人びた老成した音楽を聴かせる人だなあとは思うけれど、でも父親がウゴルスキで、その空気の中で育ったと思えばまあ納得です。
同年代のピアニストたちが、今風のカジュアルでスポーティな演奏をお手軽に繰り広げる中、こういうずっしりとした演奏をするピアニストはむしろ貴重な存在かもしれません。

そのずっしり感の中にはいうまでもなくロシアピアニズムが息づいているけれど、むかしの重戦車のようなあれではなく、しなやかさも併せ持っているところが世代を感じさせるし、ウゴルスキがドイツに亡命したことにも関連があるのか、バッハの国で多くの時間を呼吸した人らしい自然さを感じさせるところも充分ある。
ではドイツ人的かといえば…そうではなく、やはり根底にロシアの血脈を感じさせる演奏でした。

ただ、現代の基準で聴くならやや暗くて重々しいところがなきにしもあらずで、これもあのお父さんの演奏を思い起こせば十分納得できるものではありますが、個人的にはもう少し「軽さ」があるほうが現代のバッハとしては馴染みやすいかもしれません。
重々しさは演奏時間にも反映されているようで、第2巻のほうは通常大抵のピアニストがCD2枚内に収まるように弾いてしまうのに対し、ウゴルスカヤは3枚になってしまっています。

ロシアからドイツに移住してバッハを弾く人といえばなんといってもコロリオフですが、彼の演奏には軽やかさと洗練がそなわっており、そのあたりがウゴルスカヤの課題だろうと思いました。


バッハといえば、福岡でバッハのクラヴィーア作品全曲演奏に挑戦している管谷怜子さんの第10回目の演奏会がFFGホール(旧福岡銀行大ホール)で行われました。
今回はフランス組曲第4番、トッカータBWV912、ブゾーニ編曲のシャコンヌ、さらに後半は弦楽五重奏を相手にピアノ協奏曲の第2番ホ長調と第5番ヘ短調が演奏されました。

いつもながらの見事な演奏で、折り目正しさの中に管谷さんならではの温かな情感が随所に息づき、とりわけ緩徐部分での繊細かつ深い歌い込みはこのピアニストならではの世界が垣間見られるものでした。
後半のコンチェルトでは溌剌とした活気が印象的で、いかなる場合も連なる音粒が美しく、いかようにも転がし続けることのできる安定した技量にも瞠目させられました。

面白かったのはアンコールで、通常のテンポで演奏されたヘ短調の協奏曲の第3楽章を、もっと速いテンポで演奏してみるとどうなるかという「実験」と称して、2~3割ぐらいアップしたテンポで弾かれたことでした。
テンポが変わると、聴く側も、曲を捉える単位というか区切りのようなものが変化して、同じ曲ではあるけれど、まったく違った感性の世界に入っていくようでした。

どんなにテンポを上げても、管谷さんの演奏はまったく乱れることなく、指は自在に駆けまわり、美しさがいささかも損なわれないのは見事というほかありません。
また、同じ曲をテンポを変えて聴かせるという発想自体が、まるでグールドあたりがやりそうな試みのようで、とりわけバッハにはそれが面白く存分に楽しめました。

ただ表向きの演奏をするだけでなく、新しい試みや実験を聴衆に披露することも非常に大切なことだと認識させられました。