袋だけブランド

以前から不思議で、そこにいささかの違和感を感じることがあるので、思い切って書いてみることに。

人様からのいただきものに対してどうこう云うことは、厳に慎むべきことことだと重々心得てはいるけれど、今回はその中身ではなくそれを入れてぶらさげる小袋のお話。
一部の女性方に共通した特徴として、なにかを頂きものをするとき、小型でつるつるした紙の、いかにもの高級ブランド名などが記された紙袋へわざわざ入れて渡されることがあります。

むろんその中身と袋は縁もゆかりもないもので、派手なブランド名ばかりが却って悲壮的に目立ち、たんなる袋とはおよそ言い難い強い主張をしているように感じられることがあります。
さりげなく(とも思えないけれど)そういう高級ブランドの袋を「実用」として使うことに、なんらかの意味が込められているのか。
入れる袋がなんであれ、そもそも何かを頂戴すること自体がありがたいという原則は決して忘れてはいないつもりだけれども、敢えてマロニエ君の感性からしてみれば、やはり自ずと中身とかけ離れない範囲の入れ物というのはあるはずで、そういうところにも送り手の価値観やセンス、もっと厳しくいうなら教養が出るものだと思ってしまうのです。

あくまで一般論としてですが、内容に対して過度に高級ブランドのような容れ物の組み合わせというのは、いくら「ただの容れ物、ただの袋」という前提だとしても、もらう側の心の中の違和感まで消すことはできないし、そもそもセンスよろしきこととは思えぬものがあるのです。

もはや死語かも知れませんが、日本には謙譲の美徳という精神文化があり、自分のことや人様に差し上げるものは、ちょっとへりくだるとか引き下がった表現をしながら、慎ましく差し出すという美意識があったように思います。

ところで、その誰でも知っている高級ブランドの袋の中はというと、たいていごく普通のなんということもないものであったり、箱入りみやげからさらに小分けしたお菓子類の詰め合わせであったりして、旅行に行って「これ、少しですけどおみやげです!」なんぞと言われると、そういう袋であることが逆に目につき、ついつい変な感じがしてしまいます。
むろん、表向きは丁重にお礼を言ってありがたく頂戴はしますが…。

これを、本当にただの袋として純粋に利用しているだけというのであれば、逆にスーパーのレジ袋でもいいわけですが、この手の人達は決してそういうものはお使いにならないし、果たして単なるおみやげなのか、そのついでにやりたくなる自己主張でもあるのか、どっちが主役なんだかよくわからない気分になります。

マロニエ君なら、むしろ質素な袋などに、実はちょっとイイものを入れて差し上げるほうがよほど粋ってものだし、そのささやかな意外性をつくところで相手の感謝も深いものになると思うんですけどね。

べつに空港で売られているおみやげ品の箱から小分けされたパンダのチョコであれ、パイナップル饅頭であれ、ごく少量のハーブのティーバッグであれ、ご厚意そのものは素直にありがたく思いますが、それをわざわざバカラだティファニーだというような派手な紙袋に入れて相手に差し出すという感覚は、自分だったら絶対にしないというか、意識的に慎むと思うわけです。
だって、そういうことが一番貧乏くさいし、中身も実際以上にショボい印象になりますからね。

実際この手の袋をお使いになる方に限って、中身はむしろ厳しくセーヴされた痕跡が見受けられたりするもので、その甚だしいギャップに苦笑が漏れることもすくなくありません。

ご当人としては、自分は日頃からそういう一流ブランドをよく利用するから、適当な袋となるとついこうなっちゃうだけ…というさりげなさのつもりなのかもしれませんが、そこにむしろ計算された自己顕示がにじみ出ています。
マロニエ君はこの手のブランド小袋でいただくと、自分で使うことは絶対に無いので、申し訳ないけれど即ゴミ箱行きです。
そんな即ゴミ箱行きの人に使うのではいかにももったいなから、別の人に使ってくださればいいようなものですが、まさかそれを言うわけにもいきませんからね。

ちなみに、マロニエ君の知るかぎりでは男性でこれをする人はただのひとりもいません。
べつに男性がそういう細かい気が回らないなどとは思わないし、細やかさでいうなら女性のはるか上を行く男性を何人も知っていますが、なぜかこのパターンだけは女性だけの特徴のように思います。

こういう袋をわざわざ取っておいて、いざというときの小道具として使うというのも、考えてみれば手間ひまかかる自己演出だろうとお察しします。