昨年のバルダ

クラシック倶楽部の録画から、昨年東京文化会館小ホールで行われたアンリ・バルダのピアノリサイタルを視聴しました。

今回の曲目は、お得意のショパンやラヴェルとは打って変わってバッハとシューベルト。
平均律第1巻からNo,1/8/4/19/20という5曲と、シューベルトでは即興曲はD935の全4曲というマロニエ君にとっては意外なもの。

しかし、ステージ上に現れたときから気難しそうなその人は紛れもなくアンリ・バルダ氏で、お辞儀をするとき僅かに笑顔が覗くものの、基本的にはなんだかいつも不平不満の溜まった神経質そうなお方という感じが漂うのもこの人ならでは。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』を読んでいたので、バルダ氏の気難しさがいかに強烈なものであるかをいささか知るだけ、いよいよにそう見えるのかもしれませんが。

バルダ氏の指からどんなバッハが紡がれるのかという期待よりも先に、ピアノの前に座った彼は躊躇なく第1番のプレリュードを弾きはじめましたが、なんともそのテンポの早いことに度肝を抜かれました。
はじめはこちらの感覚がついていけないので、追いかけるのに必死という感じになる。

しかし不思議な事に、その異様なテンポも聴き進むにつれ納得させられてくるものがあり、バルダ氏のピアノが今日の大多数のピアニストがやっていることとは、まるで考えもアプローチも違うものだということがわかってくるようです。
まず言えることは、彼は作曲家がバッハだからといって特に気負ったふうでもなく、どの音楽に対しても自分の感性を通して再創造されたものをピアノという楽器を用いて、ためらうことなく表出してくるということ。

それは強い確信に満ち、現代においては幅広い聴き手から好まれるものではないかもしれないけれど、「イヤだったら聴くな」といわれているようでもあるし、「好みに合わせた演奏をするために自分を変えることは絶対しない!」という頑固さがこの人を聴く醍醐味でもあるようです。
今どきの正確一辺倒の演奏に慣れている耳にはある種の怖ささえ感じるほど。
その怖さの中でヒリヒリしながら、彼独特の(そしてフランス的な)美の世界を楽しむことは、この人以外で味わえるものではないようです。

コンクール世代のピアニストたちにとっては、およそ考えられない演奏で、現代のステージではある種の違和感がないではないけれど、そんなことは知ったことではないというご様子で、誰がなんと言おうが自分の感性と美意識を貫き通し、徹底してそれで表現していくという姿は、ピアニストというよりは、より普遍的な芸術家というイメージのほうが強く意識させられる気がします。
特に最近はピアニストという言葉の中にアスリート的要素であったりタレント的要素がより強まっていると感じるマロニエ君ですが、バルダ氏はさすがにそういうものはまったくのゼロで、そういう意味でも数少ない潔いピアニストだと思いました。

後半で聴いたシューベルトも、基本的にはバッハと同様で、サバサバしたテンポ。
しかし決して無機質でも冷たくもなく、そのサバサバの陰に音楽の持つ味わいや息づかいがそっと隠されており、それをチラチラ感じるけれど、表面的には知らん顔で、このピアニストらしい偽悪趣味なのかもしれません。
すべてにこの人のセンスが窺えます。

バルダの音は、スタインウェイで弾いてもどこかフランスのピアノのような、色彩感と華やぎがあります。
こじんまりとしていてシャープに引き締っており、バルダの音楽作りと相まって、それらがさざなみのように折り重なって、まるで美しい鉱石が密集するように響き渡り、ほかのピアニストでは決して聴くことのできない美の世界が堪能できるようです。

音も一見冷たいようだけど、それはパリのような都会人特有の、感情をベタベタ表に出さず、涼しい顔をしてみせる気質が現れており、いわばやせ我慢をする人の内奥にあるだろう心情を察するように聴いていると、このバルダの演奏が一見表面的な華やかさ軽さの奥に、深い心情や彼の人生そのものが見え隠れするようでもありました。