歩行者

すでに同様のことを書いたかもしれませんが、最近は以前より明らかに車の運転がしづらくなりました。
全体に速度が落ち、流れが悪くなり、個々の車の動きも円滑さを欠いていると感じますが、そこまでは「安全」ということを再優先に考えればやむを得ないこと思います。

しかし、その「安全」に対する一番の脅威は自転車であり、さらには一部の歩行者にも少しあるといいたい。
近ごろの自転車にたいする恐怖感は深まる一方で、実際にそこに潜む危険性はかなり高く、しかも改善される兆しもありません。
自転車の勝手気ままな動きはクルマのドライバーにとって、恐怖以外の何者でもありません。

車道でも歩道でもお構いなしで、夜間の無灯火なども当たり前。
それがコウモリのようにどこから突如現れるかも分からないし、おまけに大半の自転車は自ら危険を回避する気もなく、すべてはクルマ側の注意と動向にかかっているのはあまりに不条理で、おかげでマロニエ君は自転車の姿形を見るだけでもストレスを感じるようになってしまいました。

さらに最近では、自転車だけでなく、歩行者までもが自らの安全というか、自分も交通社会の一員だという認識がかなり低下していると感じざるをえないシーンが多すぎるように思います。
とりわけ感じるのが横断歩道。
横断歩道であるのをいいことに、クルマへの嫌がらせではないかというほどゆっくり渡るなど朝飯前で、中には横断歩道以外の横断もあり、しかもまったく慌てる風もなく「こっちは歩行者だ。注意しろ!」といわんばかりだったりすることも珍しくありません。

さらにはちょっとした特徴があって、世代による違いもあるようだと最近は感じます。

例えば、たった一人の歩行者であっても、右左折してくるクルマはその歩行者が横断歩道を渡っている以上、無条件に停止してじっと待つことになりますが、それがある程度年配の方であれば、自分のために車が待っていてくれていると察知して、ほんの少し小走りになるとか、できるだけすみやかに歩くなど、待っているクルマに対してなにかしら心遣いや意識が働いていることがわかり、こちらも「どうぞごゆっくり」という気持ちになるものです。

ところが、やや世代が下がってくるに従い、歩行者は横断歩道を渡ることを「権利」として捉えているように感じます。
いま自分は権利を行使しているのだから、待っているクルマへの心遣いなど無用だということでしょう。
それがわかるのが嫌なんです。
歩行者は道交法上の最弱者であり、ゆえに優先的に保護され厚遇されて当然で、その歩行者様がいままさに横断歩道を渡っているんだからクルマはいかなることがあろうと、横断が済むまで待つのは当然といった上下関係のような空気が漂います。
なんだかこれ、法権力をかさにきたパワハラでは?と感じるような空気が流れます。

ドライバーはまさにムッとするような気持ちで、不愉快を押し殺してこの場をやり過ごすことのみになります。

中には、待っているクルマには一瞥もくれず、音楽を聞きながらの悠々たる歩きスマホだったり、横の人物とだらだら会話しながら、まるで美術館でも歩くようなスピードで横断歩道を渡りますし、ひどい場合は歩行者用の信号が赤になってもこの人達はまったく急ごうともしないのは呆れるばかり。

これが多いのが、見たところだいたい20代~40代ぐらいで、意外なのは、実は子供から中学生ぐらいのほうがまともな人間性を感じることがあるのです。
彼らのほうが昔ながらにごく普通に渡ってくれるし、中には待っているこちらへ軽く頭を下げて勢い良く自転車のペダルを漕いでいく子などがけっこういるのは、とても意外であるし、殺伐とした中でせめてホッとさせられる瞬間でもあります。

もともとこれが自然であって、世の中の多くはお互い様の精神で成り立っており、上記のような態度には、どうみても人を待たせていることにいっときの快感であったりちょっとしたいじわるを楽しんでいるわけで、人の心の中にある醜いものがこんなちょっとした場面で顔を出しているように見えます。
中学生ぐらいまでは素直だった人が、社会に出て揉まれたり苦労を重ねていくうちに、こういう暗い憂さ晴らしも覚えていくのかと思うと、経験や学習というのは必ずしもプラスばかりではないなという気がします。