趣味の焦点

連休中のはじめ、ピアノ好きの知人の方が遊びに来られました。

主にピアノにまつわる話題が多かったけれど、それ以上に普段電話やメールではできないいろいろなムダ話が落ち着いてできたのが良かったなぁと思います。
実用的なやり取りなら通信手段には事欠かない現代ですが、やはり人との交流を育むには、会ってゆっくり話をすることに勝るものはなく、これがあまりにも省略されすぎることが、人と人との関係がカラカラに乾いてしまう大きな原因ではないかと思います。

現代人は、短い連絡はしきりにするけれど、落ち着いた会話をする機会や時間が激減したことは如何ともし難いことだと思います。
これはハイテクの進歩とビジネス社会の流儀が、それではすまない領域にまで蔓延したことによる弊害でしょうか。

相手の顔を見て、あれこれおしゃべりして回り道している中に、実は最も大事なものが含まれていると感じますし、それが自然と心に沈み、後に残っていくように思います。
昔はそれが当たり前だったので、ごく普通に出来ていたことなんですけどね。

そもそも人との関わりというのは、実用的伝達さえできたら済むというものではなく、むしろ実用以外の一見無駄と思えるようなところに人間的真実の核心があると思うので、マロニエ君はどんなに時代が変わっても、そこだけはなんとか踏ん張って大切にしていきたいと思います。

せっかくなのでピアノを弾いてくださいと言っても、手を横に降ってちょっとやそっとでは弾こうとされません。
こういう遠慮がちな態度に、日本人だけのDNAにある美徳を見るようで、なにやらとても懐かしい気がしました。
ピアノをなかなか弾かれないそのことというよりも、その背後にある、日本人の心の深いところにある慎みや恥じらいなどのセンシティブな精神文化に、久しぶりに触れられたことがとても心地よいものに感じられたように思います。

とはいえ、このままではキーに一切触れることなく帰られてしまうと思ったので、強く何度も奨めた結果、苦笑しながらしぶしぶピアノの前に座ってシューベルトやドビュッシーの小品を弾かれました。

演奏というものは不思議なもので、技術の巧拙とは一切関係なく、その人の人柄はじめいろいろなものが音に乗って出てくるものです。
このとき耳にしたのは、いやな色のまったくついていない、人知れず咲いている清楚な花のような、静けさと愛情に満ちた演奏でした。
音楽がとても好きで、ピアノを弾くことがとても楽しく、それを穏やかに実践している人のぬくもりがあり、ピアノや音楽、さらには趣味というものがもたらす豊かさを再確認させられた気がします。

ピアノと見ればがんがん弾きまくるのも楽しさのひとつなのかもしれませんが、マロニエ君はやはりこういう在り方のほうが自分の好みに合っています。
弾くばかりがピアノではなく、聴くことも、知ることも、語ることも、ピアノの魅力だと思うのです。

そんな価値観を共有できる人達との交流がクラブやサークルのような形をとってできたらいいと思うのですが、それがピアノの場合は至難です。
鉄道ファンが鉄道を語るように、自動車マニアが自動車談義に興じるように、何かの蒐集家がモノや情報を持ち寄って仲間と楽しい時間を過ごすように、ピアノでも同様のことができたらと思うのですが、ピアノにはそれを阻む数多くの壁があるようです。

その壁とは何か…それはまあ書かないでおきます。